2012年6月15日金曜日

勝海舟寓居跡解体

神戸新聞に勝海舟寓居跡に関する記事が載っていました。

「勝海舟寓居跡」で住宅開発
歴史ファンら惜しむ声
文化財の指定なく 門や庭園 往時の雰囲気
現在は、不動産開発・販売を手掛ける市内の会社が保有。
同社によると四月下旬から工事を始め当時の雰囲気が残る庭園や門を解体し、約10戸の一戸建て住宅を建設するという。
同社は「歴史的な土地との認識はある。地域の景観を壊さないように配慮したい」 
2012年5月15日 神戸新聞記事より 

「庭園や門をブルドーザーで解体して10戸の一戸建て住宅を建設する」ことのどこか地域の景観を破壊しない配慮なのでしょうか?
数年前まではそれはそれは美しい庭園が中に広がっていたようです。

私有地につき、立ち入りをお断りいたします。
万一、勝手に入られ、事故等が生じましても一切責任は負えません。
また、器物破損等が生じた場合、修復費用等を請求いたします 家主

こんな張り紙がしてありました。
5月13日勝海舟寓居跡解体現場


5月14日



家の解体が進んでいます。
5月16日



5月14日の写真と比較してみるとほぼ家の原型をとどめていません。

5月17日


5月18日

解体されていく塀
5月22日 



こちらの家もとうとう完全に解体されてしまいました。

かつての面影を残すのは隣にたっているこの建物だけです。

5月24日
ですが、この建物も解体の対称となっているようです。





上の写真とこの5月22日の写真と比較してみると瓦礫もずいぶん撤去されています。

5月27日
いよいよこちらの建物の解体が始まりました。


こちらの建物は完全に解体されてしまいました。

そして右側の塀の解体も本格的に始まります。

ブロガーのしがーさんがやっておられる ぶらり散歩道 というブログの中の「勝海舟寓居跡」という記事の中で2005年のこの場所の写真が載っていたのでしがーさんのご好意で承諾をいただきこちらで紹介させていただきます。
それがこの下の二枚の写真です。

しがーさん、写真掲載許可をいただきまして本当にありがとうございました。
そしてこれが2012年5月27日に私が撮影した同じ場所です。

ほんの数年前までは手入れされた美しい日本庭園でしたが、今ではその面影はどこにも残っていません。

5月31日
この建物と美しい塀が完全に解体され、完全に中が丸見えの状態になっていました。

この角にあの趣のある建物が経っていたのですが、もはやかつての面影はほとんど残っていません。


瓦礫もすっかり片づけられていました。

6月6日
今にも勝海舟や坂本龍馬の声が聞こえてきそうです。
この門をくぐり、日本の未来や海軍について二人は議論を交わしたこともあったでしょう。

しかし、今やその門も住宅開発によって撤去されその面影は残っていません。



5月15日の神戸新聞の記事によれば、こちらを解体した不動産会社はこう話しています。
「歴史的な土地との認識はある。地域の景観を壊さないように配慮したい」」
これが地域の景観を壊さないように配慮した状態なのでしょうか・・・・残念です。

ここには勝海舟寓居跡だけでなく元暦元年の平家供養塔の参拝門もあるようです。
「清水観音堂(室町時代~昭和(三年)があった当時の参拝門です。江戸時代後期のもので神戸市内でも貴重な現存物です。」とこちらの立て看板にありますが・・・。



こちらも解体されてしまいました。
工事が始まる前の写真も撮っていたと思うのですが、まさかこんなことになるとは思わなかったので安易に消してしまったのか見つかりません。  【2012/6/12】見つかりましたので画像差し替えました。
幕末から残る貴重な史跡がまた一つ消えました。

父母の大病に回復の望なしとは 知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるが如し
かつて福沢諭吉は痩せ我慢の説の中でこう言って無血開城をした勝海舟を批判しました。
私は痩せ我慢の説を読んだことはありませんし痩せ我慢の説に同意したことはありません。
しかし、この現場に行ったとき私の心の中にはこの言葉が込み上げました。
父母の大病に回復の望みなし、これと同じく私にはこの工事の解体を止めることはできません。
けれど医薬の手当を怠らざるが如し、これと同じように私はこの場所の最期を看取りたいです。
そしてかつて全国からこの地に来てくださった方々に「こんな風に住宅地になっていきました」ときちんと説明できるよう写真に残したいと思います。
住宅地になったあとに知らずに来た方はびっくりすると思いますから。

初めてこの場所を見つけたのが今年の二月か三月のことだったと思います。
氷川清話、海舟座談を読んで勝海舟が大好きになりました。
なので氷川清話の中に出てくる生島四郎太夫のことはもちろん知っていましたし、
そこに勝先生が住んでいたことも知っていました。
でも、まさかそこがまだ残っているとは思っていませんでした。
あれから150年近くの間には阪神大水害、神戸大空襲、そして阪神大震災と数多くの災害を乗り越えて現存しているなど思ってもいなかったからです。
実際、勝海舟が寓居していたそのものは阪神大水害のときに流されてしまったそうです。
今回、解体されてしまったのは幕末のころから残っていた母屋と門だと思われます。
残っているわけがないと思っていたので、その門が現存しなおかつそれが近所にあるとわかったときの物凄く嬉しかったです。
しかし、探しても探してもなかなか見つかりませんでした。
みんながブログに載せていたあの立て看板が撤去されていたからです。
今思えば、それが予兆だったんでしょう。
ようやくブログなどの情報から位置を特定することが出来たときはいつまでもあの門の前にいたいと思いました。
特に夕暮れ時のあの門の前など魔法がかかったかのようにそこには幕末の空気が漂っていました。
とても素敵な場所でした。
私は「貴重な史跡なのだから残っていて当たり前」だと思っていたのでしょう。
いけば必ずそこにあって、勝先生が門から「ニヤリ」と笑って出てきそうなそんな不思議な場所はあって当然だったのです。
けれど、しばらく行っていなかったある日、ふと訪れてみるとそこにはショベルカーで破壊されているあの場所がありました。
びっくりして思わず放心状態になりました。
そこで私は初めて「あって当たり前ではない」のだと痛感しました。
150年近く残っていたとしても、ある日突然解体されてしまうのです。
そしてこれは誰にも止められない歴史の流れなのでしょう。
神戸で生まれ育った父親がよく話しているのですが、現在観光の目玉となっている異人館も移情閣も50年ほど前までは廃墟だったそうです。
それを観光資源として活用したために現在まで残っているのでしょう。
観光資源として活用されなかった史跡は解体されていく運命なのかもしれません。

幕末ファンにとって大きな神戸観光の目玉が歴史の流れに埋もれてしまいました。
勝海舟がいた、坂本龍馬がいた、あの幕末の空気とともに。

最後に、神戸市へメールでこの件に対して問い合わせていたのですが返事をいただけたので一部をここで紹介させていただきます。

「生島四郎別邸(勝海舟寓居跡)」についてですが、当時この付近は広く生島四郎が所有しておりどの場所に勝海舟の寓居があったか特定できません。本市では、いわゆる伝承地については、文化財として取り扱っておりませんので、現地は雰囲気の良いところですが、所有者の意向に対し、文化財として制限をかける根拠がありません。」

というご回答でした。
神戸市さんお忙しい中、ご回答いただきありがとうございました。

「この場所に対して出来ることはやりたい」という思いで解体工事の経過を撮ったり行政へメールしたりしてきましたが解体されてしまった今、「私に出来ることはやりきったかな」というのが正直な気持ちです。
私に二億円くらいあれば、なんとかなったのかもしれませんがやっぱり残しておきたいならそれだけのお金が必要なんでしょう。 ・・・もっとかな・・・
とはいえ、勝海舟や坂本龍馬ファンにとっての聖地であることは間違いないのですが後世の勝海舟、坂本龍馬ファンに対して私が出来たことはこれが限界です。
勝先生に対しては「思い出の場所を守れなくてごめんなさい」・・・・とは思いますが、正直あの勝海舟ならこれに対して一体なんて言うだろうか。

「あんなもん残しておいても金はかかるし、観光資源ったってあんな住宅地、誰も来やしないヨ。後生大事に残さずとっとと有効活用しちまうのが一番良いのサ」

5 件のコメント:

  1. ブログに来ていただきありがとうございました。


    正直驚きです。看板が取り外されてた裏にはこのようなことがあったのかと。てっきり心無い人間のマナーの悪さに愛想を尽かして・・・などと思ってましたので。

    実際色んな史跡を訪れると、落書きやゴミの放置など、
    目も当てれない状態を幾度も目にしてますので。


    なくなるって悲しいですね。


    正直、それほど思い入れがあるという史跡ではありませんが、
    こちらの写真を見てたら、ただただ悲しくなってきました。

    最後に訪れれて良かったとも。



    写真の件は使っていただいても全然大丈夫です。
    あまりいい写真でないというのが申し訳なく思いますが。


    ほんと、つたないブログではありますが、
    これからもよろしくお願いします。

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    1. わざわざお越しくださりありがとうございます。
      私も最初は中に入れないこともあり、そんなに思い入れはなかったんですが
      この場所を見つけるのに何度も通い続けたせいか徐々に思い入れが深くなっていきました。
      そして決定的だったのはやっぱりブルドーザーで破壊されてるところを見てしまったからかもしれません。
      衝撃的な場面でした。
      そしてしがーさんの撮ったとても美しい庭の写真を見てより悲しくなりました。
      神戸市にメールしましたが、「当時の地図が残っておらずここが勝海舟寓居跡だという特定は出来ないため文化財登録出来なかった」という回答でした。
      幕末、特に坂本龍馬、勝海舟を描いた作品では欠かすことの出来ない場所なので残念です。
      (龍馬伝紀行でも取り上げられたのだとか)

      でも、何より怖いのはこれは飽くまでも氷山の一角でこうやって知らない間にひっそりと解体されていく史跡が他にもあるのではないか?ということです。
      文化財でなくても観光資源になりえる貴重な史跡をむざむざと無くしてしまうのは地元にとっても損失でしょうから・・・。

      写真使用承諾本当にありがとうございます。
      しがーさんの写真を見たとき、本当に感激しました。
      あの中にはかつてあんなに美しい庭があったのだと・・・。
      写真を撮っていてくださり本当にありがとうございます。
      こちらこそよろしくお願いいたします。

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  2. 昨日、何も知らずに五宮町に参りまして、寓居跡が消えていることを知りました。検索いたしまして、こちらにたどり着きました。
    記録として残していただいて、本当にありがとうございました。生島四郎大夫別邸跡への挽歌として、読んでいて胸に迫るものがありました。心より感謝いたします。いつまでもWeb上に残っていて欲しい記事です。もはや勝海舟寓居跡は、この記事にしか存在しないのですから。
    当方も雑記を書きましてこちらの記事をリンクさせていただきましたが、TBのやり方がわからずこういう形で足跡を残させていただきます。ご報告まで。

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  3. リンクがうまく入りませんでした。もうしわけありません。
    http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=757

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    1. 凛太朗様
      コメントありがとうございます。
      素敵なお名前ですね。
      ブログ読ませていただきました、記事を紹介してくださり本当にありがとうございます。
      まずは驚かれたことかと思います。
      記憶の中の時代劇で見るようなとても風情ある門を思い描いて歩いて行ってみれば、「更地」だったのですから当然です。
      記事の文からその衝撃が伝わってくると同時に私もその衝撃を改めて思い出しました。
      私も「一人神戸勝海舟ツアー」と題して二ヵ月ぶりに行ってみたところ、ショベルカーで無残に破壊されている姿が目に入りました。
      頭が真っ白になりその時は写真を撮っただけでその場を立ち去ったのですが、後日新聞記事でこの場所の運命を知りました。
      今考えれば、私は幸運だったなと思います。
      一つは、私があの場所を知ったのは壊される二か月ほど前ですがそれでも壊される前に行っていてよかったと思います。
      もう一つは、壊されている最中に出くわしたことです。
      凛太朗さんのようにある日突然更地になったあの場所と出会っていたら、心の整理がつかなかったと思います。
      それからほぼ毎朝写真を撮りに通う過程で、徐々に心の中で整理が出来始めました。
      それと同時に凛太朗さんのような方にとっても、少しでも心の整理の手助けが出来ればと思いこの記事を書きました。
      だから、凛太朗さんからコメントをいただきブログに紹介していただき本当に嬉しかったです。

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      どうやらこのBloggerはトラックバッグ出来ない仕様になっているようでお手数おかけしました。

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