2012年10月2日火曜日
坂本龍馬と汗血千里の駒
都合により今まで以上に時間が出来たので、常々「すごいなぁ」と思っている某方の読書日記のようにこれからは読んでいる本の読書メモをちょっと書いてみようと思います。写真日記はどこいった
・・・といっても普段本なんて全く読まないんですが(笑)特に小説の類は完全にお手上げです。
にも、関わらず今回読む本はずばり「坂本龍馬」を主人公にした小説。
・・・とくれば、司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」を思い起こされる方も多いかと思うのですが残念ながら違います。
「坂本龍馬」という人物を初めて「英雄」として小説の中で生き生きと蘇らせた坂崎紫瀾の「汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝」
この本がなかったら、高知に坂本龍馬像がなかったかもしれませんしひょっとしたら「竜馬がゆく」だってなかったかもしれません。
豪放磊落な英雄気質としての「坂本龍馬」はここから生まれたといっても過言ではないと思います。
何しろ、坂本龍馬を初めて描いた小説ですから。
この本が書かれたのは明治十六年、つまり1883年ですから「竜馬がゆく」のおよそ80年ほど前の小説になるでしょうか。
坂本龍馬ブームが起きたのはおよそ三回。
三回目は言うまでもなく「竜馬がゆく」ですね。
明治十六年、それまでほとんど無名だった「坂本龍馬」を一躍英雄にしたのがこの「汗血千里の駒」なのです。
この小説が大ブームとなったことにより、明治二年の「論功賞」では功績が認められなかったのか特になんの行賞も行われなかったのが、明治二十四年にはなんと正四位が追贈。
そんなんありか
小説のおかげで龍馬死後大出世を果たすこととなるのです。
功績の割に死後百年銅像がつくられなかったり、独裁者と言われた挙句、紀尾井坂で暗殺されるようなどちらかと言えば嫌われ者が好きな私としては死後大出世の龍馬に嫉妬。
ちなみにこの作者の坂崎紫瀾は大河ドラマ龍馬伝の第一回目に「岩崎弥太郎に取材する記者」として登場しています。
第二回坂本龍馬ブームが起きたのは、日露戦争開戦直前の明治三十七年
皇后美子の夢枕に立ち「ご安心なさいませ、私が日本海軍人を守護いたします」と語る一人の侍の姿が。
当時宮内大臣だった田中光顕が、「ひょっとしてこの人物ではなかったですか?」と写真を見せるとずばりその通り。
この侍こそが「坂本龍馬」だったのです。
田中光顕といえば、元土佐藩士にして中岡慎太郎の陸援隊幹部。
坂本龍馬暗殺事件の際には事件の直後に近江屋に駆けつけ重傷の中岡から聞き取った人物でもあります。
また坂本龍馬、中岡慎太郎両名の墓には彼も文字を書いています。
そのため、「田中光顕が一本芝居を打ったのでは」という話もありますがそれは定かではありません。
「美子皇后、その人って実は神戸海軍繰練所をつくり海軍卿もつとめた勝海舟って人じゃなかったですか?龍馬よりもっと美形なんですが、ほらほら。」
・・・と写真を持って問いつめたい気もします。
明治三十七年だとしたら勝先生はその四年前に亡くなってますし。
勝先生なら夢枕にだって立てる!(きっと)
・・・まぁ、美子皇后なら写真見なくても勝先生のこと知ってそうですが。
ただ、ああ見えて「戦争嫌い」な勝先生がそんな言うかな・・・という気もします。
戦争嫌いというよりも亜細亜同士で争うのが嫌なだけかもしれませんが。
勝先生はさておき、その後、龍馬の言葉通り日露戦争の日本海海戦で大勝したことで皇后の御意思により京都の霊山護国神社『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が作られることとなりました。
羨ましい・・・・・
そういえば、ネット上で読んだ短編小説で「坂本龍馬は勝海舟の「ほら話」から生まれた実在しない人物」といった内容のものがありました。
氷川清話の頃だと思われますが、新聞記者相手に色々語っていた時のこと。
薩長中心の新政府の面々、この当時の面々は既に世代交代しており維新の頃に特に目立った活躍もなかったにも関わらず「維新の元勲」と大きな顔をしていたことに憤慨していた勝海舟。
「へん・・・あんな連中よりも、昔はもっと凄い奴がいたもんさ」
「ほう、それはいったいどういう人ですか?」
こう新聞記者から訪ねられた勝海舟は、ある人物をでっちあげます。
それが「坂本龍馬」
薩長の人物だと色々面倒だから「土佐藩出身」で・・・などと勝海舟が「英雄坂本龍馬」の設定を考えて実在のように仕立て上げるのです。
美子皇后の見た夢も、勝海舟が死ぬ前にやった指示・・・。
といったような短編小説だったかと思います。
坂本龍馬が「実在しない」ということはないでしょうが、この短編小説の勝海舟のような人物こそ実は「汗血千里の駒」の作者である坂崎紫瀾なのかもしれません。
次回からはこの小説の内容について書いていきたいと思います。
2012年6月15日金曜日
勝海舟寓居跡解体
神戸新聞に勝海舟寓居跡に関する記事が載っていました。
「勝海舟寓居跡」で住宅開発
歴史ファンら惜しむ声
文化財の指定なく 門や庭園 往時の雰囲気
現在は、不動産開発・販売を手掛ける市内の会社が保有。
同社によると四月下旬から工事を始め当時の雰囲気が残る庭園や門を解体し、約10戸の一戸建て住宅を建設するという。
同社は「歴史的な土地との認識はある。地域の景観を壊さないように配慮したい」
2012年5月15日 神戸新聞記事より
「庭園や門をブルドーザーで解体して10戸の一戸建て住宅を建設する」ことのどこか地域の景観を破壊しない配慮なのでしょうか?
数年前まではそれはそれは美しい庭園が中に広がっていたようです。
私有地につき、立ち入りをお断りいたします。
万一、勝手に入られ、事故等が生じましても一切責任は負えません。
また、器物破損等が生じた場合、修復費用等を請求いたします 家主
こんな張り紙がしてありました。
5月13日勝海舟寓居跡解体現場
5月14日
家の解体が進んでいます。
5月16日
5月14日の写真と比較してみるとほぼ家の原型をとどめていません。
5月17日
5月18日
解体されていく塀
5月22日
こちらの家もとうとう完全に解体されてしまいました。
かつての面影を残すのは隣にたっているこの建物だけです。
5月24日
上の写真とこの5月22日の写真と比較してみると瓦礫もずいぶん撤去されています。
5月27日
いよいよこちらの建物の解体が始まりました。
こちらの建物は完全に解体されてしまいました。
そして右側の塀の解体も本格的に始まります。
ブロガーのしがーさんがやっておられる ぶらり散歩道 というブログの中の「勝海舟寓居跡」という記事の中で2005年のこの場所の写真が載っていたのでしがーさんのご好意で承諾をいただきこちらで紹介させていただきます。
それがこの下の二枚の写真です。
しがーさん、写真掲載許可をいただきまして本当にありがとうございました。
そしてこれが2012年5月27日に私が撮影した同じ場所です。
ほんの数年前までは手入れされた美しい日本庭園でしたが、今ではその面影はどこにも残っていません。
5月31日
この角にあの趣のある建物が経っていたのですが、もはやかつての面影はほとんど残っていません。
瓦礫もすっかり片づけられていました。
6月6日
今にも勝海舟や坂本龍馬の声が聞こえてきそうです。
この門をくぐり、日本の未来や海軍について二人は議論を交わしたこともあったでしょう。
しかし、今やその門も住宅開発によって撤去されその面影は残っていません。
5月15日の神戸新聞の記事によれば、こちらを解体した不動産会社はこう話しています。
「歴史的な土地との認識はある。地域の景観を壊さないように配慮したい」」
これが地域の景観を壊さないように配慮した状態なのでしょうか・・・・残念です。
ここには勝海舟寓居跡だけでなく元暦元年の平家供養塔の参拝門もあるようです。
「清水観音堂(室町時代~昭和(三年)があった当時の参拝門です。江戸時代後期のもので神戸市内でも貴重な現存物です。」とこちらの立て看板にありますが・・・。
こちらも解体されてしまいました。
工事が始まる前の写真も撮っていたと思うのですが、まさかこんなことになるとは思わなかったので安易に消してしまったのか見つかりません。 【2012/6/12】見つかりましたので画像差し替えました。
幕末から残る貴重な史跡がまた一つ消えました。
父母の大病に回復の望なしとは 知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるが如し
かつて福沢諭吉は痩せ我慢の説の中でこう言って無血開城をした勝海舟を批判しました。
私は痩せ我慢の説を読んだことはありませんし痩せ我慢の説に同意したことはありません。
しかし、この現場に行ったとき私の心の中にはこの言葉が込み上げました。
父母の大病に回復の望みなし、これと同じく私にはこの工事の解体を止めることはできません。
けれど医薬の手当を怠らざるが如し、これと同じように私はこの場所の最期を看取りたいです。
そしてかつて全国からこの地に来てくださった方々に「こんな風に住宅地になっていきました」ときちんと説明できるよう写真に残したいと思います。
住宅地になったあとに知らずに来た方はびっくりすると思いますから。
初めてこの場所を見つけたのが今年の二月か三月のことだったと思います。
氷川清話、海舟座談を読んで勝海舟が大好きになりました。
なので氷川清話の中に出てくる生島四郎太夫のことはもちろん知っていましたし、
そこに勝先生が住んでいたことも知っていました。
でも、まさかそこがまだ残っているとは思っていませんでした。
あれから150年近くの間には阪神大水害、神戸大空襲、そして阪神大震災と数多くの災害を乗り越えて現存しているなど思ってもいなかったからです。
実際、勝海舟が寓居していたそのものは阪神大水害のときに流されてしまったそうです。
今回、解体されてしまったのは幕末のころから残っていた母屋と門だと思われます。
残っているわけがないと思っていたので、その門が現存しなおかつそれが近所にあるとわかったときの物凄く嬉しかったです。
しかし、探しても探してもなかなか見つかりませんでした。
みんながブログに載せていたあの立て看板が撤去されていたからです。
今思えば、それが予兆だったんでしょう。
ようやくブログなどの情報から位置を特定することが出来たときはいつまでもあの門の前にいたいと思いました。
特に夕暮れ時のあの門の前など魔法がかかったかのようにそこには幕末の空気が漂っていました。
とても素敵な場所でした。
私は「貴重な史跡なのだから残っていて当たり前」だと思っていたのでしょう。
いけば必ずそこにあって、勝先生が門から「ニヤリ」と笑って出てきそうなそんな不思議な場所はあって当然だったのです。
けれど、しばらく行っていなかったある日、ふと訪れてみるとそこにはショベルカーで破壊されているあの場所がありました。
びっくりして思わず放心状態になりました。
そこで私は初めて「あって当たり前ではない」のだと痛感しました。
150年近く残っていたとしても、ある日突然解体されてしまうのです。
そしてこれは誰にも止められない歴史の流れなのでしょう。
神戸で生まれ育った父親がよく話しているのですが、現在観光の目玉となっている異人館も移情閣も50年ほど前までは廃墟だったそうです。
それを観光資源として活用したために現在まで残っているのでしょう。
観光資源として活用されなかった史跡は解体されていく運命なのかもしれません。
幕末ファンにとって大きな神戸観光の目玉が歴史の流れに埋もれてしまいました。
勝海舟がいた、坂本龍馬がいた、あの幕末の空気とともに。
最後に、神戸市へメールでこの件に対して問い合わせていたのですが返事をいただけたので一部をここで紹介させていただきます。
「生島四郎別邸(勝海舟寓居跡)」についてですが、当時この付近は広く生島四郎が所有しておりどの場所に勝海舟の寓居があったか特定できません。本市では、いわゆる伝承地については、文化財として取り扱っておりませんので、現地は雰囲気の良いところですが、所有者の意向に対し、文化財として制限をかける根拠がありません。」
というご回答でした。
神戸市さんお忙しい中、ご回答いただきありがとうございました。
「この場所に対して出来ることはやりたい」という思いで解体工事の経過を撮ったり行政へメールしたりしてきましたが解体されてしまった今、「私に出来ることはやりきったかな」というのが正直な気持ちです。
私に二億円くらいあれば、なんとかなったのかもしれませんがやっぱり残しておきたいならそれだけのお金が必要なんでしょう。 ・・・もっとかな・・・
とはいえ、勝海舟や坂本龍馬ファンにとっての聖地であることは間違いないのですが後世の勝海舟、坂本龍馬ファンに対して私が出来たことはこれが限界です。
勝先生に対しては「思い出の場所を守れなくてごめんなさい」・・・・とは思いますが、正直あの勝海舟ならこれに対して一体なんて言うだろうか。
「あんなもん残しておいても金はかかるし、観光資源ったってあんな住宅地、誰も来やしないヨ。後生大事に残さずとっとと有効活用しちまうのが一番良いのサ」
歴史ファンら惜しむ声
文化財の指定なく 門や庭園 往時の雰囲気
現在は、不動産開発・販売を手掛ける市内の会社が保有。
同社によると四月下旬から工事を始め当時の雰囲気が残る庭園や門を解体し、約10戸の一戸建て住宅を建設するという。
同社は「歴史的な土地との認識はある。地域の景観を壊さないように配慮したい」
2012年5月15日 神戸新聞記事より
「庭園や門をブルドーザーで解体して10戸の一戸建て住宅を建設する」ことのどこか地域の景観を破壊しない配慮なのでしょうか?
数年前まではそれはそれは美しい庭園が中に広がっていたようです。
私有地につき、立ち入りをお断りいたします。
万一、勝手に入られ、事故等が生じましても一切責任は負えません。
また、器物破損等が生じた場合、修復費用等を請求いたします 家主
こんな張り紙がしてありました。
5月13日勝海舟寓居跡解体現場
5月14日
家の解体が進んでいます。
5月16日
5月14日の写真と比較してみるとほぼ家の原型をとどめていません。
5月17日
5月18日
解体されていく塀
5月22日
こちらの家もとうとう完全に解体されてしまいました。
かつての面影を残すのは隣にたっているこの建物だけです。
5月24日
ですが、この建物も解体の対称となっているようです。
5月27日
いよいよこちらの建物の解体が始まりました。
こちらの建物は完全に解体されてしまいました。
そして右側の塀の解体も本格的に始まります。
ブロガーのしがーさんがやっておられる ぶらり散歩道 というブログの中の「勝海舟寓居跡」という記事の中で2005年のこの場所の写真が載っていたのでしがーさんのご好意で承諾をいただきこちらで紹介させていただきます。
それがこの下の二枚の写真です。
しがーさん、写真掲載許可をいただきまして本当にありがとうございました。
そしてこれが2012年5月27日に私が撮影した同じ場所です。
ほんの数年前までは手入れされた美しい日本庭園でしたが、今ではその面影はどこにも残っていません。
5月31日
この建物と美しい塀が完全に解体され、完全に中が丸見えの状態になっていました。
この角にあの趣のある建物が経っていたのですが、もはやかつての面影はほとんど残っていません。
瓦礫もすっかり片づけられていました。
6月6日
今にも勝海舟や坂本龍馬の声が聞こえてきそうです。
この門をくぐり、日本の未来や海軍について二人は議論を交わしたこともあったでしょう。
しかし、今やその門も住宅開発によって撤去されその面影は残っていません。
「歴史的な土地との認識はある。地域の景観を壊さないように配慮したい」」
これが地域の景観を壊さないように配慮した状態なのでしょうか・・・・残念です。
ここには勝海舟寓居跡だけでなく元暦元年の平家供養塔の参拝門もあるようです。
「清水観音堂(室町時代~昭和(三年)があった当時の参拝門です。江戸時代後期のもので神戸市内でも貴重な現存物です。」とこちらの立て看板にありますが・・・。
こちらも解体されてしまいました。
幕末から残る貴重な史跡がまた一つ消えました。
父母の大病に回復の望なしとは 知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるが如し
かつて福沢諭吉は痩せ我慢の説の中でこう言って無血開城をした勝海舟を批判しました。
私は痩せ我慢の説を読んだことはありませんし痩せ我慢の説に同意したことはありません。
しかし、この現場に行ったとき私の心の中にはこの言葉が込み上げました。
父母の大病に回復の望みなし、これと同じく私にはこの工事の解体を止めることはできません。
けれど医薬の手当を怠らざるが如し、これと同じように私はこの場所の最期を看取りたいです。
そしてかつて全国からこの地に来てくださった方々に「こんな風に住宅地になっていきました」ときちんと説明できるよう写真に残したいと思います。
住宅地になったあとに知らずに来た方はびっくりすると思いますから。
初めてこの場所を見つけたのが今年の二月か三月のことだったと思います。
氷川清話、海舟座談を読んで勝海舟が大好きになりました。
なので氷川清話の中に出てくる生島四郎太夫のことはもちろん知っていましたし、
そこに勝先生が住んでいたことも知っていました。
でも、まさかそこがまだ残っているとは思っていませんでした。
あれから150年近くの間には阪神大水害、神戸大空襲、そして阪神大震災と数多くの災害を乗り越えて現存しているなど思ってもいなかったからです。
実際、勝海舟が寓居していたそのものは阪神大水害のときに流されてしまったそうです。
今回、解体されてしまったのは幕末のころから残っていた母屋と門だと思われます。
残っているわけがないと思っていたので、その門が現存しなおかつそれが近所にあるとわかったときの物凄く嬉しかったです。
しかし、探しても探してもなかなか見つかりませんでした。
みんながブログに載せていたあの立て看板が撤去されていたからです。
今思えば、それが予兆だったんでしょう。
ようやくブログなどの情報から位置を特定することが出来たときはいつまでもあの門の前にいたいと思いました。
特に夕暮れ時のあの門の前など魔法がかかったかのようにそこには幕末の空気が漂っていました。
とても素敵な場所でした。
私は「貴重な史跡なのだから残っていて当たり前」だと思っていたのでしょう。
いけば必ずそこにあって、勝先生が門から「ニヤリ」と笑って出てきそうなそんな不思議な場所はあって当然だったのです。
けれど、しばらく行っていなかったある日、ふと訪れてみるとそこにはショベルカーで破壊されているあの場所がありました。
びっくりして思わず放心状態になりました。
そこで私は初めて「あって当たり前ではない」のだと痛感しました。
150年近く残っていたとしても、ある日突然解体されてしまうのです。
そしてこれは誰にも止められない歴史の流れなのでしょう。
神戸で生まれ育った父親がよく話しているのですが、現在観光の目玉となっている異人館も移情閣も50年ほど前までは廃墟だったそうです。
それを観光資源として活用したために現在まで残っているのでしょう。
観光資源として活用されなかった史跡は解体されていく運命なのかもしれません。
幕末ファンにとって大きな神戸観光の目玉が歴史の流れに埋もれてしまいました。
勝海舟がいた、坂本龍馬がいた、あの幕末の空気とともに。
最後に、神戸市へメールでこの件に対して問い合わせていたのですが返事をいただけたので一部をここで紹介させていただきます。
「生島四郎別邸(勝海舟寓居跡)」についてですが、当時この付近は広く生島四郎が所有しておりどの場所に勝海舟の寓居があったか特定できません。本市では、いわゆる伝承地については、文化財として取り扱っておりませんので、現地は雰囲気の良いところですが、所有者の意向に対し、文化財として制限をかける根拠がありません。」
というご回答でした。
神戸市さんお忙しい中、ご回答いただきありがとうございました。
「この場所に対して出来ることはやりたい」という思いで解体工事の経過を撮ったり行政へメールしたりしてきましたが解体されてしまった今、「私に出来ることはやりきったかな」というのが正直な気持ちです。
私に二億円くらいあれば、なんとかなったのかもしれませんがやっぱり残しておきたいならそれだけのお金が必要なんでしょう。 ・・・もっとかな・・・
とはいえ、勝海舟や坂本龍馬ファンにとっての聖地であることは間違いないのですが後世の勝海舟、坂本龍馬ファンに対して私が出来たことはこれが限界です。
勝先生に対しては「思い出の場所を守れなくてごめんなさい」・・・・とは思いますが、正直あの勝海舟ならこれに対して一体なんて言うだろうか。
「あんなもん残しておいても金はかかるし、観光資源ったってあんな住宅地、誰も来やしないヨ。後生大事に残さずとっとと有効活用しちまうのが一番良いのサ」
2012年5月16日水曜日
神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【3】
神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【1】はこちら 【2】はこちら
勝海舟ゆかりの地・・・とまではいかないかもしれませんが先ほどの海軍営之碑がある金星台を南に降りると兵庫県公館があります。
兵庫県公館(ひょうごけんこうかん)は1902年(明治35年)に建てられた庁舎建築。当初の用途は兵庫県庁本庁舎。1985年(昭和60年)からは県の迎賓館および県政資料館として活用されている。(Wikipediaより)
この兵庫県公館は1983年までは兵庫県庁舎として利用されていました。
この建物自体が建てられたのは明治35年ですが、明治6年からこの場所に兵庫県庁は設置されています。
また、現在の兵庫県庁はこの兵庫県公館の北側にあります。
何故ここが勝先生ゆかりの地?
実は氷川清話にこの兵庫県庁が出てくるのです。
「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた。今の兵庫県庁が建っているところも当時はおれの所有地だったョ (氷川清話)」
このあたりも勝先生の所有地だったんですねぇ。
兵庫県と言えば、初代兵庫県知事は伊藤博文
後の初代内閣総理大臣としても有名ですね。
1868年(慶応四年/明治元年)彼が27歳の時に兵庫県知事に就任しています。
四代目の知事は陸奥宗光
勝先生の作った神戸海軍操練所で学び坂本龍馬と行動を共にした人物です。
海軍操練所で勉強していたころにはまさか自分がここの県知事になるとは思わなかったでしょうね。
五代目の知事は税所篤
この人は海舟座談の付録にちょくちょく名前が出てくる方です。
この兵庫県公館、毎週土曜日に無料一般公開しています。
神戸大空襲で外壁以外すべて焼失したり、と明治に建てられた当時のままとは行きませんが
外装も内装も竣工当時の姿に復元されています。
さてここから南東に向かいます。
向かう先は、海のすぐそば。
そう、海軍操練所跡です。
神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代の1864年(元治1年)5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。
この場所、神戸の中心地三宮に近いんですがなにぶん場所が南過ぎてあたりがビジネス街ということもあり地元の人でも知らないという人、多いと思います。 私もネットで知りました・・・。
ただ、勝海舟寓居跡や海軍営之碑に比べると一番メジャーな史跡ではあります。
何より場所柄一番行きやすいですしね。
神戸市立博物館を真南に行ったところにあります。
結構高いところにあるので手を伸ばしても真上から撮ることは出来ませんでした。
「どうせ、坂本龍馬一辺倒なんでしょ?」と思ってろくに読んだことなかったんですが、
読んでみたら勝海舟べた褒めじゃないですか!
どうした!?何が起きた!?天変地異か!? おぃ
どこかみたいに解体されてないし、どこかみたいに文字盤新しくなってないし一番胸を張っておすすめ出来る場所ですがよく考えたらここはただ後世の人間が勝手に建てた場所であって幕末から残ってるわけでも勝先生が触ったわけでも全くないんだった。
この石碑の中の文に
今日、ただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことが出来るのがせめてもの救いである。
ってありますが
今、残ってるの直筆じゃないですから新しい石版埋め込まれちゃってますから・・・
ついでに、勝海舟寓居跡も解体されてますから住宅地・・・
時代の流れと言うのは残酷ですね・・・・・。
ちなみに海軍操練所があった場所は石碑に書いてある通り阪神高速の高架に埋め立てられているそうです。
阪神高速といえば海軍操練所のあった場所よりも東に行ったところにある阪神高速の道路はかつて阪神大震災で道路が崩れ落ちバスが半分道路から宙に浮いてしまったというあの有名な現場です。
よくみると、本物の旧戦艦の錨を使ってるんですね。
センスいいなぁ・・・・。
この地図を見ていただければわかるのですが、この石碑のすぐそばには海上保安部があります。
この海上保安部のある場所に海軍操練所はあったそうです。
また、この海上保安部は尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件で映像を流出させた保安官の所属していたところです。
海軍が生まれた場所を舞台に歴史というのは今も動いていますね。
さて、次から史跡らしい史跡はないです。
京町筋のあたりですね。
「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた」
この生田の森の近くにあったと推測される勝海舟邸のあったあたりの現在の姿がこちら
阪急三宮駅の周辺ですね。
もっとも、広大な敷地だったと思われますので写真に写っているのはごく一部ですが。
三宮の中でもこのあたりは繁華街です。
このあたりが栄えたそもそものきっかけは実は勝先生が住んでいたからかな?と想像してみたり。
「おれは、なるべくは土地の者を使ってやろうという考えで、百姓などをたくさん用いたから彼らも大いに喜んで働いたが、なかにはそのために財産家になったものもずいぶんいるよ。明治六年におれが神戸に行ったら、元おれの家の門番であった飴売の娘が、立派なお茶屋の主婦になっていたヨ。こういうふうだから、俺も神戸へ行くとなかなかもてるのサ」 (氷川清話)
地域経済活性ということを意識し神戸の活気づかせたのでしょう。
なので勝先生の住居があったあたりが栄えているのは勝先生のおかげであるという私の説もあながち的外れではないかもしれませんよ。
さて、つづいては
「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた」(氷川清話)
と先ほども引用した氷川清話の中で勝先生が言ってましたがせっかくなので生田の森にも行ってみました。
生田の森は生田神社の中にあります。
生田神社は先ほどの勝先生の自宅があったと考えられる阪急三宮駅周辺から少し北にあがったところにあります。
おそらく昔に比べればずいぶん小さくなったとは思いますが、都会の真ん中にある生田神社の中にこんな森があるとは思いませんでした。
おまけ
神社においてあったお酒
山内容堂といえば、こんな逸話があります。
文久三年。
下田の宝福寺にて勝は土佐藩前藩主山内容堂から酒席に誘われている。
その際、勝は龍馬の土佐藩脱藩の罪を放免してもらうべく容堂公に直訴していた。
そんな勝の直訴に対し容堂公はニヤリと笑いながらこう答えたという。
「ならば、この酒を飲み干してみよ」
そう言って大杯に並々と酒を注いで勝に勧めたのである。
ほろ良い加減で酔っているご隠居に対し勝は内心冷や汗をかいていた。
なんといっても勝は下戸である。(幽明の酒)
自分の小説からの引用で申し訳ないんですが、勝海舟と山内容堂の間にはこんな因縁があったのです。
一説によれば容堂公は剣菱のお酒しか飲まなかったというので、このとき勝先生が飲まされたお酒も剣菱だったのかもしれませんね。
剣菱は神戸の東灘で作られているお酒です。
というわけで以上、神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅でした。
歩ける範囲のところしか行っていないのですが、自転車や電車を使えば勝先生が設計した和田岬にある和田岬砲台にも行けますね。
私が知らないだけで神戸にはもっと勝海舟ゆかりの地があるのかもしれません。
一つ無くなりましたが。
勝海舟ゆかりの地・・・とまではいかないかもしれませんが先ほどの海軍営之碑がある金星台を南に降りると兵庫県公館があります。
兵庫県公館(ひょうごけんこうかん)は1902年(明治35年)に建てられた庁舎建築。当初の用途は兵庫県庁本庁舎。1985年(昭和60年)からは県の迎賓館および県政資料館として活用されている。(Wikipediaより)
この兵庫県公館は1983年までは兵庫県庁舎として利用されていました。
この建物自体が建てられたのは明治35年ですが、明治6年からこの場所に兵庫県庁は設置されています。
また、現在の兵庫県庁はこの兵庫県公館の北側にあります。
何故ここが勝先生ゆかりの地?
実は氷川清話にこの兵庫県庁が出てくるのです。
「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた。今の兵庫県庁が建っているところも当時はおれの所有地だったョ (氷川清話)」
このあたりも勝先生の所有地だったんですねぇ。
兵庫県と言えば、初代兵庫県知事は伊藤博文
後の初代内閣総理大臣としても有名ですね。
1868年(慶応四年/明治元年)彼が27歳の時に兵庫県知事に就任しています。
四代目の知事は陸奥宗光
勝先生の作った神戸海軍操練所で学び坂本龍馬と行動を共にした人物です。
海軍操練所で勉強していたころにはまさか自分がここの県知事になるとは思わなかったでしょうね。
五代目の知事は税所篤
この人は海舟座談の付録にちょくちょく名前が出てくる方です。
この兵庫県公館、毎週土曜日に無料一般公開しています。
神戸大空襲で外壁以外すべて焼失したり、と明治に建てられた当時のままとは行きませんが
外装も内装も竣工当時の姿に復元されています。
さてここから南東に向かいます。
向かう先は、海のすぐそば。
そう、海軍操練所跡です。
神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代の1864年(元治1年)5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。
この場所、神戸の中心地三宮に近いんですがなにぶん場所が南過ぎてあたりがビジネス街ということもあり地元の人でも知らないという人、多いと思います。 私もネットで知りました・・・。
ただ、勝海舟寓居跡や海軍営之碑に比べると一番メジャーな史跡ではあります。
何より場所柄一番行きやすいですしね。
神戸市立博物館を真南に行ったところにあります。
結構高いところにあるので手を伸ばしても真上から撮ることは出来ませんでした。
「どうせ、坂本龍馬一辺倒なんでしょ?」と思ってろくに読んだことなかったんですが、
読んでみたら勝海舟べた褒めじゃないですか!
どうした!?何が起きた!?天変地異か!? おぃ
どこかみたいに解体されてないし、どこかみたいに文字盤新しくなってないし一番胸を張っておすすめ出来る場所ですがよく考えたらここはただ後世の人間が勝手に建てた場所であって幕末から残ってるわけでも勝先生が触ったわけでも全くないんだった。
この石碑の中の文に
今日、ただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことが出来るのがせめてもの救いである。
ってありますが
今、残ってるの直筆じゃないですから
ついでに、勝海舟寓居跡も解体されてますから
時代の流れと言うのは残酷ですね・・・・・。
ちなみに海軍操練所があった場所は石碑に書いてある通り阪神高速の高架に埋め立てられているそうです。
阪神高速といえば海軍操練所のあった場所よりも東に行ったところにある阪神高速の道路はかつて阪神大震災で道路が崩れ落ちバスが半分道路から宙に浮いてしまったというあの有名な現場です。
よくみると、本物の旧戦艦の錨を使ってるんですね。
センスいいなぁ・・・・。
この地図を見ていただければわかるのですが、この石碑のすぐそばには海上保安部があります。
この海上保安部のある場所に海軍操練所はあったそうです。
また、この海上保安部は尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件で映像を流出させた保安官の所属していたところです。
海軍が生まれた場所を舞台に歴史というのは今も動いていますね。
さて、次から史跡らしい史跡はないです。
ただ、ネットで坂本龍馬のいた「海軍塾書生寮」の場所と勝海舟の自宅を推測している方がいたのでその推測を元にちょっとその場所まで行ってみました。 そのサイトはこちら→神戸龍馬操練所
まずは海軍塾の方から。
海軍塾とは勝海舟の私塾で坂本龍馬は海軍操練所ではなくこの海軍塾にいたのではないか、とする説があるのです。
坂本龍馬も住んでいたであろうその海軍塾の書生寮があったあたりの現在の姿(推定)がこちら
京町筋のあたりですね。
地元民向けに言えば、センター街にあるクレフィを南に行ったところでしょうか。
(ちなみにこのクレフィ、ダイエー二号店跡地でもありますが地震で潰れてしまいました。)
もっとも、神戸市だか兵庫県だかは幕末の歴史にからきし興味がないようで石碑もなければ場所に関する公式見解もなさそうなので飽くまで推測です。
西に200mほど行くと神戸事件でお馴染み三宮神社があります。
この神戸事件についてはまた別の記事にて。
三宮の繁華街の真っただ中といっていい場所です。
では、次は勝海舟邸跡です。
先ほども引用しましたが、氷川清話にある
この生田の森の近くにあったと推測される勝海舟邸のあったあたりの現在の姿がこちら
阪急三宮駅の周辺ですね。
もっとも、広大な敷地だったと思われますので写真に写っているのはごく一部ですが。
三宮の中でもこのあたりは繁華街です。
このあたりが栄えたそもそものきっかけは実は勝先生が住んでいたからかな?と想像してみたり。
「おれは、なるべくは土地の者を使ってやろうという考えで、百姓などをたくさん用いたから彼らも大いに喜んで働いたが、なかにはそのために財産家になったものもずいぶんいるよ。明治六年におれが神戸に行ったら、元おれの家の門番であった飴売の娘が、立派なお茶屋の主婦になっていたヨ。こういうふうだから、俺も神戸へ行くとなかなかもてるのサ」 (氷川清話)
地域経済活性ということを意識し神戸の活気づかせたのでしょう。
なので勝先生の住居があったあたりが栄えているのは勝先生のおかげであるという私の説もあながち的外れではないかもしれませんよ。
さて、つづいては
「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた」(氷川清話)
と先ほども引用した氷川清話の中で勝先生が言ってましたがせっかくなので生田の森にも行ってみました。
生田の森は生田神社の中にあります。
生田神社は先ほどの勝先生の自宅があったと考えられる阪急三宮駅周辺から少し北にあがったところにあります。
おそらく昔に比べればずいぶん小さくなったとは思いますが、都会の真ん中にある生田神社の中にこんな森があるとは思いませんでした。
おまけ
神社においてあったお酒
剣菱
剣菱と言えば、赤穂浪士も有名ですが
山内容堂が愛したお酒としても有名ですね。山内容堂といえば、こんな逸話があります。
文久三年。
下田の宝福寺にて勝は土佐藩前藩主山内容堂から酒席に誘われている。
その際、勝は龍馬の土佐藩脱藩の罪を放免してもらうべく容堂公に直訴していた。
そんな勝の直訴に対し容堂公はニヤリと笑いながらこう答えたという。
「ならば、この酒を飲み干してみよ」
そう言って大杯に並々と酒を注いで勝に勧めたのである。
ほろ良い加減で酔っているご隠居に対し勝は内心冷や汗をかいていた。
なんといっても勝は下戸である。(幽明の酒)
自分の小説からの引用で申し訳ないんですが、勝海舟と山内容堂の間にはこんな因縁があったのです。
一説によれば容堂公は剣菱のお酒しか飲まなかったというので、このとき勝先生が飲まされたお酒も剣菱だったのかもしれませんね。
剣菱は神戸の東灘で作られているお酒です。
というわけで以上、神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅でした。
歩ける範囲のところしか行っていないのですが、自転車や電車を使えば勝先生が設計した和田岬にある和田岬砲台にも行けますね。
私が知らないだけで神戸にはもっと勝海舟ゆかりの地があるのかもしれません。
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