2012年5月16日水曜日

神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【3】

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勝海舟ゆかりの地・・・とまではいかないかもしれませんが先ほどの海軍営之碑がある金星台を南に降りると兵庫県公館があります。

兵庫県公館(ひょうごけんこうかん)は1902年(明治35年)に建てられた庁舎建築。当初の用途は兵庫県庁本庁舎。1985年(昭和60年)からは県の迎賓館および県政資料館として活用されている。(Wikipediaより)

この兵庫県公館は1983年までは兵庫県庁舎として利用されていました。
この建物自体が建てられたのは明治35年ですが、明治6年からこの場所に兵庫県庁は設置されています。
また、現在の兵庫県庁はこの兵庫県公館の北側にあります。

何故ここが勝先生ゆかりの地?
実は氷川清話にこの兵庫県庁が出てくるのです。

「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた。今の兵庫県庁が建っているところも当時はおれの所有地だったョ (氷川清話)」

このあたりも勝先生の所有地だったんですねぇ。

兵庫県と言えば、初代兵庫県知事は伊藤博文
後の初代内閣総理大臣としても有名ですね。
1868年(慶応四年/明治元年)彼が27歳の時に兵庫県知事に就任しています。

四代目の知事は陸奥宗光
勝先生の作った神戸海軍操練所で学び坂本龍馬と行動を共にした人物です。
海軍操練所で勉強していたころにはまさか自分がここの県知事になるとは思わなかったでしょうね。

五代目の知事は税所篤
この人は海舟座談の付録にちょくちょく名前が出てくる方です。

この兵庫県公館、毎週土曜日に無料一般公開しています。
神戸大空襲で外壁以外すべて焼失したり、と明治に建てられた当時のままとは行きませんが
外装も内装も竣工当時の姿に復元されています。


さてここから南東に向かいます。
向かう先は、海のすぐそば。


そう、海軍操練所跡です。

神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代1864年元治1年)5月に、軍艦奉行勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。

この場所、神戸の中心地三宮に近いんですがなにぶん場所が南過ぎてあたりがビジネス街ということもあり地元の人でも知らないという人、多いと思います。 私もネットで知りました・・・。
ただ、勝海舟寓居跡や海軍営之碑に比べると一番メジャーな史跡ではあります。
何より場所柄一番行きやすいですしね。
神戸市立博物館を真南に行ったところにあります。



結構高いところにあるので手を伸ばしても真上から撮ることは出来ませんでした。
「どうせ、坂本龍馬一辺倒なんでしょ?」と思ってろくに読んだことなかったんですが、
読んでみたら勝海舟べた褒めじゃないですか!
どうした!?何が起きた!?天変地異か!? おぃ
どこかみたいに解体されてないし、どこかみたいに文字盤新しくなってないし一番胸を張っておすすめ出来る場所ですがよく考えたらここはただ後世の人間が勝手に建てた場所であって幕末から残ってるわけでも勝先生が触ったわけでも全くないんだった。
この石碑の中の文に 

今日、ただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことが出来るのがせめてもの救いである。 

ってありますが
今、残ってるの直筆じゃないですから 新しい石版埋め込まれちゃってますから・・・

ついでに、勝海舟寓居跡も解体されてますから 住宅地・・・


時代の流れと言うのは残酷ですね・・・・・。
ちなみに海軍操練所があった場所は石碑に書いてある通り阪神高速の高架に埋め立てられているそうです。
阪神高速といえば海軍操練所のあった場所よりも東に行ったところにある阪神高速の道路はかつて阪神大震災で道路が崩れ落ちバスが半分道路から宙に浮いてしまったというあの有名な現場です。


よくみると、本物の旧戦艦の錨を使ってるんですね。
センスいいなぁ・・・・。

ちなみにこれが昔の石碑(隣にあります)

海軍操練所跡 

大きな地図で見る

この地図を見ていただければわかるのですが、この石碑のすぐそばには海上保安部があります。
この海上保安部のある場所に海軍操練所はあったそうです。
また、この海上保安部は尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件で映像を流出させた保安官の所属していたところです。
海軍が生まれた場所を舞台に歴史というのは今も動いていますね。

さて、次から史跡らしい史跡はないです。
ただ、ネットで坂本龍馬のいた「海軍塾書生寮」の場所と勝海舟の自宅を推測している方がいたのでその推測を元にちょっとその場所まで行ってみました。 そのサイトはこちら→神戸龍馬操練所
まずは海軍塾の方から。
海軍塾とは勝海舟の私塾で坂本龍馬は海軍操練所ではなくこの海軍塾にいたのではないか、とする説があるのです。
坂本龍馬も住んでいたであろうその海軍塾の書生寮があったあたりの現在の姿(推定)がこちら


京町筋のあたりですね。
地元民向けに言えば、センター街にあるクレフィを南に行ったところでしょうか。
(ちなみにこのクレフィ、ダイエー二号店跡地でもありますが地震で潰れてしまいました。)

もっとも、神戸市だか兵庫県だかは幕末の歴史にからきし興味がないようで石碑もなければ場所に関する公式見解もなさそうなので飽くまで推測です。
西に200mほど行くと神戸事件でお馴染み三宮神社があります。
この神戸事件についてはまた別の記事にて。
三宮の繁華街の真っただ中といっていい場所です。

では、次は勝海舟邸跡です。
先ほども引用しましたが、氷川清話にある

「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた」

この生田の森の近くにあったと推測される勝海舟邸のあったあたりの現在の姿がこちら

阪急三宮駅の周辺ですね。
もっとも、広大な敷地だったと思われますので写真に写っているのはごく一部ですが。
三宮の中でもこのあたりは繁華街です。
このあたりが栄えたそもそものきっかけは実は勝先生が住んでいたからかな?と想像してみたり。

「おれは、なるべくは土地の者を使ってやろうという考えで、百姓などをたくさん用いたから彼らも大いに喜んで働いたが、なかにはそのために財産家になったものもずいぶんいるよ。明治六年におれが神戸に行ったら、元おれの家の門番であった飴売の娘が、立派なお茶屋の主婦になっていたヨ。こういうふうだから、俺も神戸へ行くとなかなかもてるのサ」 (氷川清話)

地域経済活性ということを意識し神戸の活気づかせたのでしょう。
なので勝先生の住居があったあたりが栄えているのは勝先生のおかげであるという私の説もあながち的外れではないかもしれませんよ。

さて、つづいては

「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた」(氷川清話)

と先ほども引用した氷川清話の中で勝先生が言ってましたがせっかくなので生田の森にも行ってみました。
生田の森は生田神社の中にあります。
生田神社は先ほどの勝先生の自宅があったと考えられる阪急三宮駅周辺から少し北にあがったところにあります。


おそらく昔に比べればずいぶん小さくなったとは思いますが、都会の真ん中にある生田神社の中にこんな森があるとは思いませんでした。

おまけ
神社においてあったお酒
剣菱
剣菱と言えば、赤穂浪士も有名ですが 山内容堂が愛したお酒としても有名ですね。
山内容堂といえば、こんな逸話があります。

文久三年。
下田の宝福寺にて勝は土佐藩前藩主山内容堂から酒席に誘われている。
その際、勝は龍馬の土佐藩脱藩の罪を放免してもらうべく容堂公に直訴していた。
そんな勝の直訴に対し容堂公はニヤリと笑いながらこう答えたという。
「ならば、この酒を飲み干してみよ」
そう言って大杯に並々と酒を注いで勝に勧めたのである。
ほろ良い加減で酔っているご隠居に対し勝は内心冷や汗をかいていた。
なんといっても勝は下戸である。(幽明の酒


自分の小説からの引用で申し訳ないんですが、勝海舟と山内容堂の間にはこんな因縁があったのです。
一説によれば容堂公は剣菱のお酒しか飲まなかったというので、このとき勝先生が飲まされたお酒も剣菱だったのかもしれませんね。
剣菱は神戸の東灘で作られているお酒です。

というわけで以上、神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅でした。
歩ける範囲のところしか行っていないのですが、自転車や電車を使えば勝先生が設計した和田岬にある和田岬砲台にも行けますね。
私が知らないだけで神戸にはもっと勝海舟ゆかりの地があるのかもしれません。
一つ無くなりましたが。

より大きな地図で 勝海舟ゆかりの地 を表示


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