2012年10月2日火曜日

汗血千里の駒その壱 井口村刃傷事件


常日頃愛読している「海舟座談」から、愛用のヌメ革ブックカバーをはぎ取り「汗血千里の駒」に付け替えるのは少し罪悪感がありました。
勝先生ごめんなさい、けして龍馬に乗り換える訳じゃないんです。

という訳で「汗血千里の駒」について書いていきたいと思います。
その前に私の知識量について。

幕末の知識はほとんどないです、特に土佐はよくわかりません。
坂本龍馬が特に好きというい訳でもないですし、「竜馬がゆく」も読んでいません。
むしろ、龍馬に嫉妬しています。
というか英雄視される人よりその陰で嫌われる人の方が好きなんだと思います。
ちなみに「龍馬伝」は「方言」に違和感を感じてやめてしまいました。

カツオ人間が龍馬だったら見たと思います。

坂本龍馬よりも勝海舟の方が好きです。

そんな状態で読書開始

「面白の春雨や引花を散らさぬ程に降れ引ハハハ、時に繁斎老 空の模様が大分持ち直って来たでは御座らぬかえ愉快愉快」

こんな一文から始まった「汗血千里の駒
忘れかけてましたけど、この小説が書かれたのは明治十六年
明治というよりは文体はむしろ江戸。
現代仮名遣いに直されているので幾分読みやすいかな、という感じですが最初は同じ文を何度も読み直さないとちょっと理解出来ませんでした。
五頁ほど我慢して読んでいくと慣れてきて、かえってこの「弁士」が熱意の籠もった講釈しているかのような独特の文体が楽しくなってきたりもします。
冒頭のシーンで描かれているのは、いわゆる「井口村刀傷事件

上士である山田広衛が最初の一文を歌いながら、ほろ酔い加減で同じく上士の繁斎老こと松井繁斎と二人で歩いているところ、永福寺の門前で格下の下士である中平忠治郎とぶつかります。
「こは無礼なり理不尽に我が往来を妨げるはなんの遺恨」
無礼な、理不尽にも俺の行く手を妨げるのはなんの恨みがあってのことか
と山田は中平を詰ります。
ですが、中平も負けてはいません。
「理不尽とは御身のこと無提灯にてこの暗夜突当りしは互いの粗忽それに何ぞ咎め立」
理不尽とはあなたのことではありませんか、提灯もつけずにこの暗い夜でぶつかってしまったのはお互いの過ちでしょう。それに対して何を咎めるというのですか
酔っぱらっていることもあってか、この中平の言葉にカチンと来た山田はこう言います。
「我こそは今一家中に隠れなき剣客にて山田広衛と知らざるか先ず名を名乗れ何者ぞ」
俺が今一家中に名だたる剣客として有名な山田広衛と知ってのことか!名を名乗れ、何者だ
相手が上士であることを知った中平、絶対絶命。
ここで名乗ってしまえば、下士であることを理由におめおめと恥辱を受けることは目に見えています。
「いかがせん(どうしたものか)」と中平が考え込んでいるとそれを見た山田が「この期に臨んで名乗らぬとは察するところ我々と同格ならぬ軽輩の」と山田にバレてしまいました。
追いつめられた中平、ここで私なら謝りますがどうやらそう成らない様子。
「勝負は時の運」とばかりにいきなり中平は抜刀し、山田を斬りつけます。

・・・いや、中平さん正直それはどうだろう。

相手は先程自分でも「一家中に隠れなき剣客」と自慢してた山田です。
当然あっと言う間に中平は返り討ちにされてしまいました。
山田は一緒にいた松井に「狼藉者が死んだのか確認したいから、近くで提灯を借りてきてくれ」と頼み、その間一人になった山田は喉が乾いたからと水際に立ってゴクゴクと水を飲んでいます。
すると後ろから怪しい人影が・・・。
山田は無言で後ろから大袈裟に斬られ、あわや川の中へと姿を消してしまいました。
この人影の正体は次号、こうご期待!

これが第一回汗血千里の駒のダイジェストです。
こんな調子で書いてると到底書ききれないのでもっと大ざっぱでもよかったかな、なんて考えてます。
元々、土陽新聞の連載物なので一話が短いんですね。


さて、ここから解説。
土佐では戦国時代に高知を治めていた長宗我部の家来たちは下士、江戸時代になって初代土佐藩主である山内一豊の家来として土佐にやってきたものは上士として同じ武士身分の中であっても歴然とした身分差別がありました。
龍馬伝でもそうでしたが、まずはこの「身分差別」ここを徹底して描写しています。
他の龍馬ものでもおそらくこの「上士と下士(郷士)」の関係は切っても切れない関係となっていると思われますが、何故作者の坂崎紫瀾はここをクローズアップしたのか?
わざわざ史実ではその場にいなかったと思われる龍馬を登場させてまで、坂崎はこの事件と上士と下士の関係を描いているのです。
実は坂崎紫瀾はただの小説家ではありません、むしろ本職は政治運動の方。
そう、彼は自由民権運動の活動家なのです。
表現の自由のないこの時代、「汗血千里の駒」を発表する二年前の明治十四年には高知での政談演説が問題となり一年間政談演説禁止処分、翌年には遊芸稼人として運動を再開しますがすぐに告訴され重禁錮三ヶ月、罰金二十円、監視六ヶ月の判決を受けます。
まさに坂崎の自由民権運動絶体絶命。
そこで書き始めたのが、この「汗血千里の駒」
坂崎はこの小説によって己の政治思想を主張しているわけです。
激しい身分差別を批判することで当時行われていた一部の人間による専制政治を批判したかったのかもしれません。

参考文献: 坂崎紫瀾(Wikipedia)、「汗血千里の駒」内の注釈

汗血千里の駒その弐

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