北野天満宮の狛犬(裏側)
裏口から入った北野天満宮で見つけたのは、なかなか興味深い小さな天神様
その名も「文子天満宮」
文子という巫女が「吾を祀れ」という菅原道真本人の神託を受け、とりあえず自宅にお祭りしたのが始まり。
場所を指定して「吾を祀れ」といったっていうのが、なんか凄いですね。
ご本人の希望通りの場所に建てられた神社、これが北野天満宮の発祥なんだそうです。
祭神の菅原道真と言えば、現在では学問の神様として有名ですね。
元は大宰府に流された菅原道真の死後、数々の「変異」が起きたことにより怨霊と恐れられる存在でした。
その数々の変異を列挙すると
・道真死後六年後、道真を大宰府へ左遷させた政敵藤原時平が三十九歳で病死
・道真死後二十年後、時平の甥である東宮保明親王が二十一歳で病死
・道真死後二十二年後、保明親王の息子慶頼王も病死
・道真死後二十七年後、極めつけは清涼殿落雷事件
清涼殿落雷事件は多くの死傷者を生みましたが、特にかつて時平に命令され道真の動向を探っていた藤原清貫が落雷により衣服に引火した上に胸を焼かれて即死するという凄惨な死を遂げています。
また、道真を流罪にした醍醐天皇はこの清涼殿落雷事件から三か月後に崩御してしまいました。
この事件により、菅原道真雷神伝説が生まれることとなるのです。
また、以後百年ほど災害が起きるたびに道真の祟りだと言われたようです。 参考文献:菅原道真Wikipediaより
・・・・・・・まぁ、無理もない。
いざ、本殿へ
やっぱり、神戸の北野天満宮よりも広くて建物が立派ですね。
ちなみに神戸の北野天満宮は平清盛が神戸へ遷都する際に都の守護とするため、建てたものだそうです。
元は怨霊だったはずの道真が都の守護として祀られるなんて、なんだか不思議ですね。
でも、この日本の御霊信仰の文化こそ日本文化の根幹の一つと言えると思います。
というか、この御霊信仰大好きです。
結婚式にあえて神戸の北野天満宮を選んだあたり、お分かりいただけるとは思いますが。
みんなが晴天を祈る中、密かに花嫁が雷を期待していたのは秘密です。
・・・・と、ここで興味深い灯篭を発見。
渡辺綱の灯篭
渡辺綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に「深夜のこととて家までおくってほしい」と頼まれる。
しばらく行くとその女性は恐ろしい鬼の姿となり綱を捕えて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろうと北野天満宮上空へさしかかる。 その時、綱は太刀を抜き放ち、綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落とし難を逃れる。
後日、綱はこれも天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、この灯篭を寄進したという。
この話、知っていたのでちょっと大興奮!
四天王の中には「金太郎」で有名な坂田金時もいます。
この四天王は日本最強の鬼、酒呑童子を討伐したというまさに伝説の四天王ですね。
ちなみにこの酒呑童子の討ち取られた首が腐敗し、そこから蚊が生まれたという伝説もあったり。・・・じゃあ、それまで蚊はいなかったのかと。
この酒呑童子の家来、茨木童子が生まれた場所の説の一つが大阪の茨木市。
実はこの時、綱が切った鬼の正体こそこの茨木童子だと考えられているのです。
後日、茨木童子は腕を取り返しに渡辺綱の元へやってきますが、これはまた別のお話。
この話は茨木童子Wikipediaに載っています。
この時、鬼の腕を切った綱の刀の名前は「髭切」
髭切はこの事件を切っ掛けに「鬼切」と名を変え、更に子孫の源為義の代に「夜に獅子の鳴くような声で吠えた」ことから「獅子ノ子」と名を改めています。・・・・刀の夜泣きに悩まされる為義さん・・・。
この「獅子ノ子」の兄弟刀「吠丸」を手放した際に作った代刀「小鳥」を「獅子ノ子」と一緒に置いておいたところ小鳥が短くなっていたことから「獅子ノ子」の仕業であると考え、「友切」と改められることとなるのです。・・・・そういえば、清盛に「友切」が出てきたような・・・・。
為義の子、義朝の代になり敗戦続きの義朝は「名刀友切を持っているのに勝てない」と八幡大菩薩に恨み節。
八幡大菩薩は「それは友切という名のせいである。髭切に戻しなさい」と御神託を下します。
剣の力が戻った髭切は義朝の子、頼朝の代で源平合戦に勝利することとなるのです。 参考文献:髭切Wikipediaより
この髭切は現在北野天満宮に納められているそうです。(見てない・・・見れたのかなぁ・・・)
北野天満宮牛祭り
目が赤い・・・。
流石、北野天満宮・・・・いたるところにうしさんがいらっしゃいます。
写真は二枚だけですが、もっともっとたくさんいました。
興味深かったのは、頭よりも腰がツルツルのうしさんがいたこと。
神戸の北野天満宮の牛は黒い塗装が取れて地の金色が剥き出しになってるくらい頭がツルツルだったので不思議でした。
おまけ
マーライオン(違)
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