2012年9月11日火曜日

京都旅行その3銀閣寺


京都旅行その1金閣寺はこちら その2北野天満宮はこちら

続いて向かったのは、足利義政の作った銀閣寺こと慈照寺
北野天満宮からバスで向かいます。
あ、京都でバスを利用するなら市バス専用一日乗車券を買ってるとお得ですよ!
バスの運転手さんにお願いすれば、500円で売ってくれます。
嵐山や大原、貴船などでは使えませんが、主要観光地で使えて便利です。
一回乗ると200円なので3回以上利用すれば、元が取れますね。
乗る予定がなかったとしても、案外買ってみれば「じゃあ、あそこも行ってみよう」と思わず観光したくなります。
おすすめです。
さて、バス停銀閣寺道で降りて哲学の道(多分)を歩いていきます。

噂に聞く哲学の道(多分)

見えてきたのが、銀閣寺参道の坂にずらりと並ぶお土産物屋さん。
こちらは帰りに撮った写真(なので下り坂です)

銀閣寺の参道が清水寺の清水坂のようなことになってるとは、思いませんでした。
こういうお土産物屋さんがずらりと並ぶ道、大好きです。
金閣寺と同じく入り口でお札のようなチケットを買って、いざ銀閣寺へ

私:「・・・・・・・・。」
カピ:「・・・・・・・・。」
私:「これだっけ?」
カピ:「・・・これだよ

なんででしょうか、ド派手な金閣寺や北野天満宮を見たからか銀閣寺か普通の建物かわからなくなってました。
小学生の頃、歴史の資料集で銀閣寺の写真を見て「行ってみたい場所No,1」だったのですが。
実際に見てみるとこんなものかもしれません。
このわびさびの空気感は好きなんですけどね・・・・。

ちなみにこの銀閣寺、よく「お金がなくて銀が貼れなかった」「貼ってたけど剥がれた」など言われることがありますがそもそもこの建物が「銀閣」と呼ばれるようになったのは創建した足利義政の死後、何百年も経った江戸時代中期のことだそうです。
しかも、もともとお寺ではなく彼が別荘としてこの東山に建てたもの。
彼の死後、ここは彼の菩提を弔うための寺となったのです。
確かに別荘として住むには金閣寺よりも銀閣寺の方が住みやすそうですね。
金閣寺って綺麗だけど、住むには落ち着かなそう・・・。

本当に入ってすぐのところにあります。




 江戸時代に改修され、創建当時の面影はないとのことですが風情のあるいいお庭です。

銀閣寺の上からは、京の町が一望出来ます。
多くの人が汗だくで昇ってきてこの景色を見た途端に思わず歓声を上げていました。
そこにふと、一つの看板がありました。

被爆アオギリの里子運動
― アオギリの願い ―
今、平和公園で生き続ける被爆樹のアオギリは爆心地より1.3kmのところで八時十五分までは立派な木の姿として仲間の桜や柳と共に生きつづけ人間に勇気を与えておりました。
あの日の一瞬の強い原爆の熱線を浴び大火傷をしました。
桜、柳は熱線で命を失いましたがアオギリは体に火傷を受けながらも生きることができました。
1973年に平和公園へ移植され現在地で孫や子孫がふえてあの日の事実を語り継いでおります。
毎年きれいな花が咲き種ができます。
アオギリの願いの声は種を人の智恵によって各地に「平和の種」として核兵器廃絶と生きることの命を大切に・・・・。
本当の平和を創り後世に幸せが続くことを訴えるのです。
人間の手によりアオギリの願いを叶えましょう。
銀閣 慈照寺


原発事故を経験した今の日本にとってこのアオギリの願いはより重く感じられる気がします。


2012年9月7日金曜日

京都旅行その2北野天満宮


うっかり裏口から入ってしまったのでこれは後から撮った入り口

京都旅行その1~金閣寺~はこちら

続いて向かったのは、北野天満宮
バスを乗り間違え、結局歩いていくことに・・・・。
うっかり、裏側から入ってしまったがためにちょっと小粒な北野天満宮入口


北野天満宮の狛犬(裏側)


裏口から入った北野天満宮で見つけたのは、なかなか興味深い小さな天神様
その名も「文子天満宮」


文子という巫女が「吾を祀れ」という菅原道真本人の神託を受け、とりあえず自宅にお祭りしたのが始まり。

場所を指定して「吾を祀れ」といったっていうのが、なんか凄いですね。
ご本人の希望通りの場所に建てられた神社、これが北野天満宮の発祥なんだそうです。
祭神の菅原道真と言えば、現在では学問の神様として有名ですね。
元は大宰府に流された菅原道真の死後、数々の「変異」が起きたことにより怨霊と恐れられる存在でした。
その数々の変異を列挙すると

・道真死後六年後、道真を大宰府へ左遷させた政敵藤原時平が三十九歳で病死
・道真死後二十年後、時平の甥である東宮保明親王が二十一歳で病死
・道真死後二十二年後、保明親王の息子慶頼王も病死
・道真死後二十七年後、極めつけは清涼殿落雷事件 

清涼殿落雷事件は多くの死傷者を生みましたが、特にかつて時平に命令され道真の動向を探っていた藤原清貫が落雷により衣服に引火した上に胸を焼かれて即死するという凄惨な死を遂げています。
また、道真を流罪にした醍醐天皇はこの清涼殿落雷事件から三か月後に崩御してしまいました。
この事件により、菅原道真雷神伝説が生まれることとなるのです。
また、以後百年ほど災害が起きるたびに道真の祟りだと言われたようです。 参考文献:菅原道真Wikipediaより

・・・・・・・まぁ、無理もない。


いざ、本殿へ


北野天満宮はどこか大陸的と言うか極彩色の鮮やかに塗られた美しい神殿に魅了され、ついついシャッターを多く切ってしまいました。

神戸にある中国寺院関帝廟

やっぱり、神戸の北野天満宮よりも広くて建物が立派ですね。
ちなみに神戸の北野天満宮は平清盛が神戸へ遷都する際に都の守護とするため、建てたものだそうです。
元は怨霊だったはずの道真が都の守護として祀られるなんて、なんだか不思議ですね。
でも、この日本の御霊信仰の文化こそ日本文化の根幹の一つと言えると思います。
というか、この御霊信仰大好きです。
結婚式にあえて神戸の北野天満宮を選んだあたり、お分かりいただけるとは思いますが。
みんなが晴天を祈る中、密かに花嫁が雷を期待していたのは秘密です。

・・・・と、ここで興味深い灯篭を発見。

渡辺綱の灯篭


渡辺綱の灯篭                                                  
渡辺綱が所用で夜半一条戻り橋にさしかかると、若く美しい女性に「深夜のこととて家までおくってほしい」と頼まれる。                                               
しばらく行くとその女性は恐ろしい鬼の姿となり綱を捕えて舞い上がり、愛宕山へ連れ去ろうと北野天満宮上空へさしかかる。                                           その時、綱は太刀を抜き放ち、綱を掴んでいた鬼の片腕を切り落とし難を逃れる。         
後日、綱はこれも天満宮の大神のおかげと神恩を感謝し、この灯篭を寄進したという。 
      


この話、知っていたのでちょっと大興奮!
渡辺綱といえば、源頼光率いる頼光四天王の筆頭。
四天王の中には「金太郎」で有名な坂田金時もいます。
この四天王は日本最強の鬼、酒呑童子を討伐したというまさに伝説の四天王ですね。
ちなみにこの酒呑童子の討ち取られた首が腐敗し、そこから蚊が生まれたという伝説もあったり。・・・じゃあ、それまで蚊はいなかったのかと。
この酒呑童子の家来、茨木童子が生まれた場所の説の一つが大阪の茨木市。
実はこの時、綱が切った鬼の正体こそこの茨木童子だと考えられているのです。
後日、茨木童子は腕を取り返しに渡辺綱の元へやってきますが、これはまた別のお話。
この話は茨木童子Wikipediaに載っています。

この時、鬼の腕を切った綱の刀の名前は「髭切」
髭切はこの事件を切っ掛けに「鬼切」と名を変え、更に子孫の源為義の代に「夜に獅子の鳴くような声で吠えた」ことから「獅子ノ子」と名を改めています。・・・・刀の夜泣きに悩まされる為義さん・・・。
この「獅子ノ子」の兄弟刀「吠丸」を手放した際に作った代刀「小鳥」を「獅子ノ子」と一緒に置いておいたところ小鳥が短くなっていたことから「獅子ノ子」の仕業であると考え、「友切」と改められることとなるのです。・・・・そういえば、清盛に「友切」が出てきたような・・・・。
為義の子、義朝の代になり敗戦続きの義朝は「名刀友切を持っているのに勝てない」と八幡大菩薩に恨み節。
八幡大菩薩は「それは友切という名のせいである。髭切に戻しなさい」と御神託を下します。
剣の力が戻った髭切は義朝の子、頼朝の代で源平合戦に勝利することとなるのです。 参考文献:髭切Wikipediaより

この髭切は現在北野天満宮に納められているそうです。(見てない・・・見れたのかなぁ・・・)

北野天満宮牛祭り

目が赤い・・・。

流石、北野天満宮・・・・いたるところにうしさんがいらっしゃいます。
写真は二枚だけですが、もっともっとたくさんいました。
興味深かったのは、頭よりも腰がツルツルのうしさんがいたこと。
神戸の北野天満宮の牛は黒い塗装が取れて地の金色が剥き出しになってるくらい頭がツルツルだったので不思議でした。

おまけ
マーライオン(違)

2012年9月6日木曜日

京都旅行その1金閣寺

カピと同じ日に休みを取って9月5日の水曜日に京都へ行ってきました。
行先は念願の金閣寺・北野天満宮・銀閣寺!
ブログには書いてませんでしたが、私は七月に二条城へ行ってきたので二ヵ月ぶりの京都です。
着物を着始めた三月以降はだいたい一カ月に一回のペースで行っていたのでちょっとお久しぶりです。
今回は夏着物を着納めてしまったので洋服での参戦・・・・うーん、ちょっと寂しい。
デニム着物を買って夫婦で京都リベンジ!なんて考えてます。
さて、それでは旅の本編に入りたいと思います。

いつものように阪急河原町から錦市場へ
平日だとやっぱり空いていていいですね。
錦市場は閉まるのが早いので、朝に行くか遅くとも夕方5時ごろには行った方がいいです。
私はだいたい十一時頃に行きます。
いつも食べてるのでうっかり写真を撮るのを忘れてしまいましたが、錦市場ではいつも練薬膳汸臼庵でチーズ棒天、鮮魚木村でトロサーモンのカルパッチョを食べます。
これが美味しい!
錦市場では食べ歩き用商品が売られていて、小腹が空いたときなんかにちょうどいい量の美味しい品々が食べられます。
でも、やっぱりがっつり食べたい!
・・・・と思っていたところに寺町通りでホルモン丼のお店を見つけてしまいました。
惹きつけられるように入る二人(笑)

ドーン!
梅しんにて。
トロットロのホルモンがたっぷり乗っていてお値段600円でした。
牛丼風のたれがたっぷりかかっていて、お米がつやつや輝いております。
うーん、写真を見てたらまた食べたくなってきた・・・・。
焼肉屋さんなので、カウンターでお肉を焼いて食べられます。
お一人でも気軽に行ける感じがいいですね。
このお店のある寺町通りといえば、勝海舟が護衛の岡田以蔵と歩いていたときに刺客に襲われた場所でもあります。
現在は本当に繁華街でその面影は全くありません。

さて、お腹もいっぱいになったところで河原町からバスに乗っていよいよ最初の目的地、金閣寺

バスの中から見た鴨川

乗るバスが悪かったのか、結構な時間をバスに揺られてようやく到着した金閣寺
鹿苑寺 通称 金閣寺

入り口でチケットを買うとさっそく中へと入っていきます。
流石、金閣寺だけあってやっぱり修学旅行生が多かったですね。

入場チケットというよりもお札

金閣寺

流石の貫禄、金閣寺
極楽浄土を表現したと言われるだけあって、黄金に輝く建築はこの世のものとは思えません。


カピ:「見てすぐは凄いなぁ~って思うけど、見慣れたらこんなもんかって気になってくるね」

・・・・・ヲィ


すぐ傍では、修学旅行生がガイド役のタクシー運転手さんのお話を聞いていました。






書きながら思い出しましたが、ここ金閣寺は三島由紀夫の「金閣寺」でも描かれているように一度消失しているんですよね。
消失以前の金閣寺がどの程度黄金に輝いていたのかわかりませんが、この美しい建造物をこの手で燃やしたいと願ってしまった青年僧侶の心裡状態はいかなるものだったのでしょうか。

本堂なのにあまりカメラを向けられることもなくスルーされる方丈


金閣寺境内をしばらく行くと不動堂が見えてきました。
不動堂は宇喜多秀家が再建したとされ現存する建築物の中では鹿苑寺最古のものだそうです。
不動堂

そこでこんな蝋燭を発見。
ガン封じ

さっそくガン封じの蝋燭を立ててきました。
・・・・・が、隣のストレス封じの蝋燭がなんか怖いです。
まるでこちらに倒れ掛かってきそう・・・・。
ガン封じの効果、ありますように!

さて、金閣寺の駐車場と言えば一部の人間にとっては聖地ですよね。
わかりますか?

ミスター:「それでは、若旦那行きますよ?」
若旦那:「春を満喫!」
ミスター:「グルメといで湯!」
若旦那:「ぶら~り~」

ミスター:「カブの旅!
若旦那:「!?

そう、「水曜どうでしょう」で放送された「原付西日本制覇」の旅が始まったところですね。

いつも過酷なロケばかりしている「水曜どうでしょう」で今回は京都でグルメと温泉を満喫しよう!と北海道から連れてこられた大泉洋さん。
若旦那の恰好ですっかり京都を満喫する気満々でしたが、いつもの如くドッキリ。
この駐車場から鹿児島の端っこまで原付カブの旅をさせられることとなりました。

駐車場を見るまで完全に忘れていたんですが、駐車場を一目見た途端に記憶が蘇ってきました(笑)
今見たら放送されたアングルと写真のアングルが違いますね(汗)
たまたまですが、この聖地に来ることが出来て良かったです。

金閣寺を出てすぐのところで見つけた大文字焼きの「大」