2015年9月25日金曜日

父「船戸雅彦」を偲ぶ会について

「あれからもう一年も経つんだね」
そう色々な人から声をかけて頂いた。
そう言われてもいまいち実感がわかないのは何故だろう。
昨年の夏は8/31の夜に父が亡くなってからというものの「お悔やみ」と「祝福」を交互に受けるという少し奇妙な夏だった。
父が亡くなったとき臨月直前の立派な妊婦だった私は四十九日には出産三日目と言う精神的にも肉体的にも厳しいときだった。
夜間の3時間おきの授乳で娘に起こされると今度は父を思い出し眠れなくなる夜もしばしばあった。
なかなかゆっくり感慨に浸る余裕がなかった。
今思えばそれもまた一つの救いだったのかもしれない。
偲ぶ会が行われたのは垂水の舞子ビラだった。
歴史好き、それもとりわけ幕末が好きな方にとっては有栖川宮家の別邸であり有栖川宮熾仁親王が最期のときを迎えた場所であると言えば通りが良いかもしれない。
この場所が選ばれたのは父が垂水に長年事務所を構えていたからだろう。
私は2年ぶりに事務所のあった垂水駅前の二国の風景を車窓から見つめた。
今は別の先生が事務所を引き継いでくださっているため変わらずあの場所には司法書士事務所がある。
けれど「船戸司法書士事務所」はもうないのだ。
事務所に所縁のある方々にとっては仕事場であっただろうその場所は私にとっては中学生の頃の遊び場でもある。
当時事務所は開業したばかりで仕事もなく、私はそこでテレビを見たりお年玉で買ったばかりのゲームボーイカラーで遊んだり垂水駅あたりでブラブラしたり、と青春時代の楽しい場所だった。
西区の片田舎に住んでいた私は垂水駅前の二国の交通量に目を丸くして驚いていた。
そんなことを思い出しながら夫の運転する車で事務所の前を通る。
事務所は違う名前になっていたけれど思ったよりも寂しくはなかった。
ただ胸の奥のほうで一抹の寂しさが少し残っただけだった。
叔母が以前写真で今の事務所を見せてくれていたからかもしれない。
また名前以外はそのまま残っていたのも大きかったかもしれない。
シャッターも屋根もそこに書かれた事務所の字体までもそのままそっくり同じだった。
あれがコンビニなんかに跡形もなく変わっていたらショックだったかもしれない。
舞子ビラで1年ぶりに皆さんにお会いできて本当に嬉しかった。
葬儀のときは落ち着いてお話し出来なかったし、まだまだ知らない父の話を色々な方から聞くことが出来て良かった。

中学一年生にときに初めて一泊研修で淡路島へ行ってから20年近く毎年必ずお会いしてた皆さんとの繋がりはは父の死によってぷっつりと途切れてしまった。
30年の人生のうちの20年の間親戚よりも親しくして頂いていた皆さんとの別れは父との別れと同じくらい寂しいものだった。
けれど、せめて皆さんに孫の顔を見せることが出来て親としてなんだか少し誇らしかった。
肝心の彼女の祖父にこの子を抱かせてあげることは出来なかったけれど、皆さんから「この子は生まれ変わりだね」と声をかけて頂いてとても嬉しかった。

この偲ぶ会を主催してくださった島田先生や手配してくださった方々、お越しいただいた皆様に改めて御礼を申し上げたいと思います。