2012年10月16日火曜日

汗血千里の駒その肆 井口村刃傷事件

汗血千里の駒 第四話
一方、下士たちは健気にも上士たちを二人も討ち見事弟の仇を果たした池田は天晴れであると皆小躍りして勇み喜んでいました。
山田宅から池田へ踏み込まれるかもしれないと聞くや否や、
「こうなれば、池田と一緒に生死を共にしよう」
と池田宅へ集まった人々の中には、門田為之助、望月亀弥太、池内蔵太、大石弥太郎を初めとして池田の知らない人まで集まり防御の手はずを整えています。
表門、裏門、果ては屋根にまで。

門田為之助:土佐に一絃琴を広めた人物であり、龍馬と同時期に勝海舟の弟子になった。
望月亀弥太:龍馬の紹介で神戸海軍操練所(神戸海軍塾?)に入り勝海舟から航海術を学んだ。
池内蔵太:亀山社中設立に尽力、慶応元年長崎から長州へ船で行く途中に台風で難破し死亡
大石弥太郎:土佐勤皇党設立に尽力

なかなかのメンバーが揃いましたね。


こうしているうちに山田宅より
「刃傷沙汰の件でお伺いしたいことがあるのでお越しください」などと幾度となく使者が来るようになりましたが、諸有志に相談した上で池田は体よく返事をしていました。
しかし、池田も元より覚悟の上のことです。
諸有志の義心に感謝しつつにっこり微笑むと、池田はこう切り出しました。
「私は二人も上士を討つことが出来ました、もうこの世に思い残すことはありません。
しかしながら、今ここで割腹すればなんとなく気後れしたようになるのでまず弟の遺体を葬った上で山田宅より来なければ、心静かに割腹いたします

だから、なんですぐに殺すだの死ぬだの・・・・

その日の夕方、黄昏の暗さに紛れて弟の棺に従い野辺の送り(火葬?)を営むと夜もすがらみんなで酒を飲み交わしました。
そして夜が明けた三月六日の暁にまだ少年の宇賀(池田を呼びに行った少年)と一緒に池田は潔く腹を斬ります。
涙を惜しむものなど一人もいませんでした。

宇 賀 君 巻 き 添 え

後日、池田の父のみならずその叔父までも「日頃の監督不行き届き」を理由にその格禄(注:家格と棒禄)を取り上げられてしまいます。
一方の長屋と諏訪へは池田を咎めた功績をたたえ「御小姓組」へ大抜擢という差別的処分。
下士はますます土佐藩庁へ不満を募らせていくこととなるのです。

・・・まぁ、個人的には池田の方が悪いと思っているんですが。

さて池田の家へ集まった諸有志の中に「坂本龍馬」という豪傑がおりました。
やっと坂本龍馬来た!

この龍馬、元は池田兄弟と無二の友達でしたが一度仲違いをしてそれきりとなっていました。
しかし、今回の騒動で諸有志と共に池田宅へ馳せ参じていたのです。
池田が割腹し滝のような血潮があふれたのをみてこの龍馬、何を思ったのか刀に結びつけた真っ白な下げ緒をサラサラとほどくとその血潮に浸してしまいました。
みるみるうちに唐紅に染まるこの下げ緒をみると、
「これこそ世にも益荒男(ますらお)の魂の籠もった最後の形見」
と、元のように刀に結いつけ、家内の者に会釈をすると悠然とその場から立ち去ってしまいました。
なにそれかっこいい と思ったけどよく考えたらただの変な奴かもしれない
これには思わず諸有志たちも舌を巻きましたが、この龍馬こそ汗血千里の駒のように才能を生かし活躍していくのです。

ちなみにこの事件の時、史実の龍馬はここにいなかったはずとかいろいろ言われているようですがこれ以降の明治時代に書かれた龍馬物の中にこの場面はよく登場しているそうなのでどうやら史実と思われていたようです。
実際のところ史実の坂本龍馬のことはよくわかりません。
坂本龍馬について書かれた史料は「維新土佐勤王史」だけだとも言われているそうですが、そもそもこれを書いたのはこの「汗血千里の駒」の作者である坂崎紫瀾ですからどの程度信憑性があるのかは不明です(失礼)
あ、でもこれも「瑞山会」名義となっており坂崎紫瀾が書いたというのも怪しい?よくわかりません。

それよりも同じく坂崎紫瀾が書いた「勝伯事跡開城始末」の方に興味が移り始めた今日この頃。

ネットで調べてみるとどうやら司馬遼太郎の「竜馬がゆく」ではこの「井口村刃傷事件」はこう描かれているそうです。
中平と共の少年宇賀、宇賀は非常に美少年であり実は二人は衆道の関係にあったのです。
えっ
その二人が歩いているところを酔っ払った山田が二人をからかおうとしたところから事件が起きてしまいます。
池田虎之進が切腹後、山田家は「宇賀も責任を取るべき」だと宇賀の切腹を主張します。
下士の諸有志のリーダー格であった坂本龍馬は宇賀を必死で守ろうとしますが、ここで上士と下士の抗争が勃発してしまえば多数の犠牲者が出るのは確実。
泣く泣く宇賀を切腹させてしまったそうです。
原作・・・じゃないや「汗血千里の駒」とはまた違った展開ですね。
司馬遼太郎が何故人気なのかわかった気がします。
ちなみにどちらにしろ史実龍馬はこの時土佐にいないはず、と言われているので龍馬云々はやはりどちらにしても創作なのかもしれません。

これを書いている現在Wikipediaの坂本龍馬の項目には
「なお、事件の当事者で切腹した池田虎之進の介錯を龍馬が行って、その血に刀の下緒を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは坂崎紫瀾の小説『汗血千里駒』のフィクションである。」
とありますが、少なくとも私が読んでいる「汗血千里の駒」には「龍馬が介錯を行う」「下士の団結を誓った」という場面は登場しません。


汗血千里の駒その参 井口村刃傷事件



汗血千里の駒、第三話


背中に血塗れの遺体を背負った男(池田)を見た武士二人組。
不思議に思いながらも通り過ぎるも、やがて土橋の辺にさしかかると目を疑うような光景が広がっています。
麦畑には松井がしたたか頭脳を斬られ息も絶え絶え、水際には血塗れで倒れている男が一人。よく見るとその男は日頃から見知っている剣客山田広衛ではありませんか。
しばし呆然と立ちすくみますが、山田ほどの達人がこれほどあっけなくやられるとは考えられません。
ともかくも急いで先程の「曲者」を追いかけ戻ります。
ようやく先程の「曲者」こと池田に追いつき武士二人はこう問いつめました。 
「私たちは長屋と諏訪と申すものです。先程貴方とすれ違ったあとに土橋へ行くと、私の知り合いの山田広衛ともう一人が倒れておりました。そうであれば、貴方が背中に背負っている血塗れの遺体は相手の一人とお見受けいたしますが、一体貴方は何者でこれはどういうことなのでしょう」 
池田はハッと思いますが、言ってみるだけ言ってみようと決意した上で思い口を開きます。 
「私を不審思うのはもっともですが、私は相手ではまったくありません。背中に背負っている遺体は私の実の弟である中平と申します。
私は御歩行格の池田虎之進と申しますが、先程この少年があわただしく私の元へ参り「弟の中平氏が知らない人とに口論し遂に刃傷沙汰になっています」と知らせに来たためそのまま駆けつけましたが、すでにその勝負は終わっており互いに深手を負って倒れておりました。 
おそらく相打ちでしょう。 


えっ

ひとまず弟の遺体を引き取りその上で事情を会所(注:土佐藩庁や町内を取り締まる役所)へ届け出るつもりでございました」

それを聞いた武士二人、長屋と諏訪は思わず互いに目配せをします。
池田の言葉は信じられないものではありましたがそうといっても証拠がないのでなんとも言えず躊躇っているとふとあることに気づき再び池田に向き合います。
「死人に口なし」なので今日のことは後日の調査で明らかになるでしょうが、その前に第一、下士以下の身分の者が変死した場合にはその場で検視を受けるのが我が土佐国の掟ではありませんか。それなのに夜のうちに引き取ってしまおうとはどういうおつもりですか」
そう言われれば池田は何も言えません。
「弟への愛情に目がくらみ、御国の掟を忘れておりました」
そういって頭を深く下げますが、長屋と諏訪は池田を信用することが出来ません。

まぁ、そうだろう

「なら今から我々と一緒に再び土橋へ戻り、夜が明けるのを待って検視を受けましょう」
そう言われれば、池田も逆らうことなど出来ません。
遺体を土橋に戻し夜明けを待って検視を無事に受け、それぞれ無言の帰宅を果たしました。
山田と松井の両家族の哀しみは言うまでもなく。
「山田ほどの剣客を下士などに殺されてしまうとはなんと惜しいことだ」
と一家中が苦々しく思っていると、ふと誰ともなくこう言い始める者が現れました。
「池田こそ、その場に駆けつけ弟の仇を果たした上で何食わぬ顔でぬけぬけと生きながらえているのではないのか」
これに賛同する男がいました。
山田広衛の弟、次郎八です。
兄広衛に負けず劣らずの剣客の次郎八は山田の家で会合を開きます。
血気盛んな若者たちは
「下士の池田などここに呼び出して、手打ちにしてしまえ」
「いや、奴もおめおめと来ないだろう。それよりもこちらから相手の家へ踏み込んで次郎八殿が兄上の仇を討たれよ」
などと不穏な空気が漂います。
一体どうなるのか!?次回を待て!

「おそらく相打ちでしょう」って白々しいにもほどがあるぞ>池田


汗血千里の駒その肆


汗血千里の駒その弐 井口村刃傷事件

風邪を引いて寝込んでいるうちに図書館の返却期限が来てとうとう返してしまった汗血千里の駒。
アップしていない下書きがまだいくつか残っているので、それで誤魔化しつつamazonの到着を待っています(結局買った)

というわけで、どう考えてもあの調子で書いていると読書メモどころか読書自体が進まなくなってしまうのでサクサク書いていきますよ。
というか読書メモのために本文読み返したり引用しはじめると、全く前にすすまなくなってしまうことに気づいた。
というわけで二号以下ざっくり記憶の範囲で書いていきたいと思います。

まずは一号のあらすじ
酔っぱらって歩いていた山田広衛松井繁斎の二人。
そこに中平忠治郎という男がぶつかります。
酔っぱらっていたこともあり、中平を詰る山田。「この暗い中、提灯なしで歩いてたんだからお互い悪いでしょ」と正論を言う中平。
「なんだと!?俺が剣客として有名な山田広衛と知ってのことか!何者だ!」と暴れん坊将軍に出てくる典型的な悪役みたいな台詞を吐く山田。
そう、山田は武士の中でも土佐では上の武士である「上士」だったのです。
そこで中平が暴れん坊将軍であれば良かったんですが、残念ながら「下士」という下の身分。
名乗れば、上士の威光を傘にさんざん侮辱されるであろうことは目に見えてます。
そこで中平は山田に向かっていきなり斬りつけますが、相手は「剣客」あっさり中平は返り討ち。山田は一緒にいた松井に「死んだか確認したいから近所で提灯もらってきて」と頼み、
一人になって水際で水を飲んでいたところ後ろから何者かに袈裟切りに斬られてしまいます。
というわけでここから続き。

山田を斬った謎の男、それこそが坂本りょ・・・ではなくて中平の兄、池田虎之進
いつになったら龍馬でてくんのよ。

中平と一緒にいた共の少年が「(中平が)上士と争っている」と、池田に急いで報告に行ったのです。
文字通り「押っ取り刀」で少年と駆けつけた池田でしたが、すでに弟の息はなく、すると川で水を飲んでる男がいるではありませんか。
「こいつが弟の敵に違いない」
そう思い池田は男、山田を後ろから大袈裟に斬りました。
えっ 
いきなり後ろから斬られてしまった山田は体勢を崩して川へ落ちてしまいます。
「名乗りもせずにいきなり後ろから斬りつけてくるとは卑怯な」
と山田も血に塗れた刀で応戦しますが、いかに剣客といえど足場が悪い川では不利。
見事、池田は弟中平の仇を討ち山田を切り倒したのです。
 
現代人の私から見れば、まず刀抜いた奴(中平)が悪いと思うけどな。
嫌な奴って風に描いてるけど山田はこの場合、正当防衛じゃないのか。

そこに提灯をゆらゆら揺らしながら現れる人影が。
池田は少年に「しっ」と声をかけ二人で物陰に隠れます。
「いやぁ、山田さん待たせたねぇ!」
大声でそういいながら、山田に頼まれていた提灯を持ってきたのはみんなからも忘れかけられていたに違いない松井。
池田はそれを見るや、無言で提灯を切り落とし
返す刀で松井の頭脳を横様にぶった斬り。
ここでも見事池田は「弟の敵討ち」を果たしたわけです。
 
てゆうか、松井さん完全にとばっちり。
「なんだ、案外弱かったな・・・」と呟く池田。
池田、どう考えてもそれは悪役のセリフだ。


池田は弟の遺体を背負い、少年とともに我が家を目指して帰ります。
そこで上士風の男たちとすれ違い背中の遺体を見られてしまいますが、事情がわからないので男たちは訝しげに思いながらもそのまま池田を見逃します。
しかし、いづれ池田が山田松井を殺したことが男たちに知られてしまうのは確実。
一体どうなってしまうのか!?次号を待て!

・・・やっぱり、悪いのは池田兄弟じゃないだろうか。

汗血千里の駒その参


2012年10月2日火曜日

汗血千里の駒その壱 井口村刃傷事件


常日頃愛読している「海舟座談」から、愛用のヌメ革ブックカバーをはぎ取り「汗血千里の駒」に付け替えるのは少し罪悪感がありました。
勝先生ごめんなさい、けして龍馬に乗り換える訳じゃないんです。

という訳で「汗血千里の駒」について書いていきたいと思います。
その前に私の知識量について。

幕末の知識はほとんどないです、特に土佐はよくわかりません。
坂本龍馬が特に好きというい訳でもないですし、「竜馬がゆく」も読んでいません。
むしろ、龍馬に嫉妬しています。
というか英雄視される人よりその陰で嫌われる人の方が好きなんだと思います。
ちなみに「龍馬伝」は「方言」に違和感を感じてやめてしまいました。

カツオ人間が龍馬だったら見たと思います。

坂本龍馬よりも勝海舟の方が好きです。

そんな状態で読書開始

「面白の春雨や引花を散らさぬ程に降れ引ハハハ、時に繁斎老 空の模様が大分持ち直って来たでは御座らぬかえ愉快愉快」

こんな一文から始まった「汗血千里の駒
忘れかけてましたけど、この小説が書かれたのは明治十六年
明治というよりは文体はむしろ江戸。
現代仮名遣いに直されているので幾分読みやすいかな、という感じですが最初は同じ文を何度も読み直さないとちょっと理解出来ませんでした。
五頁ほど我慢して読んでいくと慣れてきて、かえってこの「弁士」が熱意の籠もった講釈しているかのような独特の文体が楽しくなってきたりもします。
冒頭のシーンで描かれているのは、いわゆる「井口村刀傷事件

上士である山田広衛が最初の一文を歌いながら、ほろ酔い加減で同じく上士の繁斎老こと松井繁斎と二人で歩いているところ、永福寺の門前で格下の下士である中平忠治郎とぶつかります。
「こは無礼なり理不尽に我が往来を妨げるはなんの遺恨」
無礼な、理不尽にも俺の行く手を妨げるのはなんの恨みがあってのことか
と山田は中平を詰ります。
ですが、中平も負けてはいません。
「理不尽とは御身のこと無提灯にてこの暗夜突当りしは互いの粗忽それに何ぞ咎め立」
理不尽とはあなたのことではありませんか、提灯もつけずにこの暗い夜でぶつかってしまったのはお互いの過ちでしょう。それに対して何を咎めるというのですか
酔っぱらっていることもあってか、この中平の言葉にカチンと来た山田はこう言います。
「我こそは今一家中に隠れなき剣客にて山田広衛と知らざるか先ず名を名乗れ何者ぞ」
俺が今一家中に名だたる剣客として有名な山田広衛と知ってのことか!名を名乗れ、何者だ
相手が上士であることを知った中平、絶対絶命。
ここで名乗ってしまえば、下士であることを理由におめおめと恥辱を受けることは目に見えています。
「いかがせん(どうしたものか)」と中平が考え込んでいるとそれを見た山田が「この期に臨んで名乗らぬとは察するところ我々と同格ならぬ軽輩の」と山田にバレてしまいました。
追いつめられた中平、ここで私なら謝りますがどうやらそう成らない様子。
「勝負は時の運」とばかりにいきなり中平は抜刀し、山田を斬りつけます。

・・・いや、中平さん正直それはどうだろう。

相手は先程自分でも「一家中に隠れなき剣客」と自慢してた山田です。
当然あっと言う間に中平は返り討ちにされてしまいました。
山田は一緒にいた松井に「狼藉者が死んだのか確認したいから、近くで提灯を借りてきてくれ」と頼み、その間一人になった山田は喉が乾いたからと水際に立ってゴクゴクと水を飲んでいます。
すると後ろから怪しい人影が・・・。
山田は無言で後ろから大袈裟に斬られ、あわや川の中へと姿を消してしまいました。
この人影の正体は次号、こうご期待!

これが第一回汗血千里の駒のダイジェストです。
こんな調子で書いてると到底書ききれないのでもっと大ざっぱでもよかったかな、なんて考えてます。
元々、土陽新聞の連載物なので一話が短いんですね。


さて、ここから解説。
土佐では戦国時代に高知を治めていた長宗我部の家来たちは下士、江戸時代になって初代土佐藩主である山内一豊の家来として土佐にやってきたものは上士として同じ武士身分の中であっても歴然とした身分差別がありました。
龍馬伝でもそうでしたが、まずはこの「身分差別」ここを徹底して描写しています。
他の龍馬ものでもおそらくこの「上士と下士(郷士)」の関係は切っても切れない関係となっていると思われますが、何故作者の坂崎紫瀾はここをクローズアップしたのか?
わざわざ史実ではその場にいなかったと思われる龍馬を登場させてまで、坂崎はこの事件と上士と下士の関係を描いているのです。
実は坂崎紫瀾はただの小説家ではありません、むしろ本職は政治運動の方。
そう、彼は自由民権運動の活動家なのです。
表現の自由のないこの時代、「汗血千里の駒」を発表する二年前の明治十四年には高知での政談演説が問題となり一年間政談演説禁止処分、翌年には遊芸稼人として運動を再開しますがすぐに告訴され重禁錮三ヶ月、罰金二十円、監視六ヶ月の判決を受けます。
まさに坂崎の自由民権運動絶体絶命。
そこで書き始めたのが、この「汗血千里の駒」
坂崎はこの小説によって己の政治思想を主張しているわけです。
激しい身分差別を批判することで当時行われていた一部の人間による専制政治を批判したかったのかもしれません。

参考文献: 坂崎紫瀾(Wikipedia)、「汗血千里の駒」内の注釈

汗血千里の駒その弐

坂本龍馬と汗血千里の駒


都合により今まで以上に時間が出来たので、常々「すごいなぁ」と思っている某方の読書日記のようにこれからは読んでいる本の読書メモをちょっと書いてみようと思います。写真日記はどこいった
・・・といっても普段本なんて全く読まないんですが(笑)特に小説の類は完全にお手上げです。
にも、関わらず今回読む本はずばり「坂本龍馬」を主人公にした小説。
・・・とくれば、司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」を思い起こされる方も多いかと思うのですが残念ながら違います。
「坂本龍馬」という人物を初めて「英雄」として小説の中で生き生きと蘇らせた坂崎紫瀾の「汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝
この本がなかったら、高知に坂本龍馬像がなかったかもしれませんしひょっとしたら「竜馬がゆく」だってなかったかもしれません。
豪放磊落な英雄気質としての「坂本龍馬」はここから生まれたといっても過言ではないと思います。
何しろ、坂本龍馬を初めて描いた小説ですから。
この本が書かれたのは明治十六年、つまり1883年ですから「竜馬がゆく」のおよそ80年ほど前の小説になるでしょうか。
坂本龍馬ブームが起きたのはおよそ三回。
三回目は言うまでもなく「竜馬がゆく」ですね。

明治十六年、それまでほとんど無名だった「坂本龍馬」を一躍英雄にしたのがこの「汗血千里の駒」なのです。
この小説が大ブームとなったことにより、明治二年の「論功賞」では功績が認められなかったのか特になんの行賞も行われなかったのが、明治二十四年にはなんと正四位が追贈。

そんなんありか

小説のおかげで龍馬死後大出世を果たすこととなるのです。
功績の割に死後百年銅像がつくられなかったり独裁者と言われた挙句、紀尾井坂で暗殺されるようなどちらかと言えば嫌われ者が好きな私としては死後大出世の龍馬に嫉妬。
ちなみにこの作者の坂崎紫瀾は大河ドラマ龍馬伝の第一回目に「岩崎弥太郎に取材する記者」として登場しています。

第二回坂本龍馬ブームが起きたのは、日露戦争開戦直前の明治三十七年
皇后美子の夢枕に立ち「ご安心なさいませ、私が日本海軍人を守護いたします」と語る一人の侍の姿が。
当時宮内大臣だった田中光顕が、「ひょっとしてこの人物ではなかったですか?」と写真を見せるとずばりその通り。
この侍こそが「坂本龍馬」だったのです。
田中光顕といえば、元土佐藩士にして中岡慎太郎の陸援隊幹部。
坂本龍馬暗殺事件の際には事件の直後に近江屋に駆けつけ重傷の中岡から聞き取った人物でもあります。
また坂本龍馬、中岡慎太郎両名の墓には彼も文字を書いています。
そのため、「田中光顕が一本芝居を打ったのでは」という話もありますがそれは定かではありません。
「美子皇后、その人って実は神戸海軍繰練所をつくり海軍卿もつとめた勝海舟って人じゃなかったですか?龍馬よりもっと美形なんですが、ほらほら。」
・・・と写真を持って問いつめたい気もします。
明治三十七年だとしたら勝先生はその四年前に亡くなってますし。
勝先生なら夢枕にだって立てる!(きっと)
・・・まぁ、美子皇后なら写真見なくても勝先生のこと知ってそうですが。
ただ、ああ見えて「戦争嫌い」な勝先生がそんな言うかな・・・という気もします。
戦争嫌いというよりも亜細亜同士で争うのが嫌なだけかもしれませんが。
勝先生はさておき、その後、龍馬の言葉通り日露戦争の日本海海戦で大勝したことで皇后の御意思により京都の霊山護国神社『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が作られることとなりました。

羨ましい・・・・・

そういえば、ネット上で読んだ短編小説で「坂本龍馬は勝海舟の「ほら話」から生まれた実在しない人物」といった内容のものがありました。

氷川清話の頃だと思われますが、新聞記者相手に色々語っていた時のこと。
薩長中心の新政府の面々、この当時の面々は既に世代交代しており維新の頃に特に目立った活躍もなかったにも関わらず「維新の元勲」と大きな顔をしていたことに憤慨していた勝海舟。

「へん・・・あんな連中よりも、昔はもっと凄い奴がいたもんさ」
「ほう、それはいったいどういう人ですか?」

こう新聞記者から訪ねられた勝海舟は、ある人物をでっちあげます。
それが「坂本龍馬」
薩長の人物だと色々面倒だから「土佐藩出身」で・・・などと勝海舟が「英雄坂本龍馬」の設定を考えて実在のように仕立て上げるのです。
美子皇后の見た夢も、勝海舟が死ぬ前にやった指示・・・。

といったような短編小説だったかと思います。
坂本龍馬が「実在しない」ということはないでしょうが、この短編小説の勝海舟のような人物こそ実は「汗血千里の駒」の作者である坂崎紫瀾なのかもしれません。
次回からはこの小説の内容について書いていきたいと思います。