2012年4月17日火曜日

勝海舟、平成に告ぐ

氷川清話という本があります。
明治三十年代ごろに勝海舟邸に出入りしていた吉本襄という人が新聞に載っていた談話や勝から直接聞いた話を本にして発行したものです。
勝海舟の言葉が直接聞ける貴重な本ではあるのですが、吉本の改ざん疑惑があったり(これは松浦玲・江藤淳が元となった新聞を探しだし出来るだけ訂正している)そもそも新聞記事が事実に即してなかったり(これは海舟座談の巌本がそう言っている)どこまであてになるかわかりませんが、面白い資料だとは思います。

海舟座談とは明治二十八年から亡くなる数日前まで巌本善治が訪れ勝から聞いた話をそのまま残しておいたものを元に発行された本です。
どちらの本も生き生きと話す勝海舟が目の前にいるようでとても面白い。
さて今回はそんな氷川清話や海舟座談に載っている勝の言葉から現代日本について警告しているのではないかと思えるほどの言葉を集めてみました。
現代日本人は100年以上前の勝海舟の言葉を今一度噛み締めてみるべきではないでしょうか。

原発問題について

さすがの勝海舟でも原発問題について言及はしていませんが、その代り興味深い発言を海舟座談で見つけました。

鉱毒問題は、直ちに停止の外ない。
今になってその処置法を講究するは姑息だ。
先ず正論によって打ち破り、前政府の非を改め、その大綱を正し、而して後にこそ、その処分法を議すべきである。然らざれば、如何に善き処分法を立つるとも、人心快然たることなし。
何時までも鬱積して破裂せざれば民心遂に離散すべし。
既に今日の如くならば、たとい鉱毒のためならずとも、少しその水が這入っても、その毒の為に不作となるように感ずるならん

これは足尾銅山鉱毒事件についての勝の言葉です。
ちょっとわかりにくいので私流に勝手にわかりやすく変えてみます。

鉱毒問題は直ちに停止の外あるめぇよ。
今んなってその処置法を調査するなんざ姑息だ。
まず正論によって打ち破り、前政府の非を改めてその大本を正した後で処分法を議論すべきさ。
そうでなきゃ、いかに良い処分法を作ったって国民の気分は晴れねぇよ。
いつまでも怒りをため込んで破裂しなけりゃ国民の心は政府から離れちまうだろうさ。
すでに今みてぇなことならたとえ鉱毒の所為じゃなかったとしても、少しその水が入っただけで「鉱毒のせいで田畑が不作になった」って感じちまうじゃねぇか。
そんなことでどうして国民を安心させられるってぇんだ。

合っているのかわかりませんが、べらんめぇ口調にてわかりやすく変えてみました。
(飲み屋で酒飲みながら政府の文句言ってるだけのおっさんの言葉になってしまったんじゃ・・・)
どうも現代に生きる私には100年前の言葉と思えません。

鉱毒問題→原発 鉱毒→放射能 前政府→原発推進した自民党

こう置き換えるだけで100年前の問題が現代の問題に感じられてしまいます。
野田総理は所信表明演説で

政治に求められるのは、いつの世も『正心誠意』の4文字があるのみです。意を誠にして、自らの心を正す。私は国民の皆さまの声に耳を傾けながら、政治家としての良心に忠実に、国難に立ち向かう重責を果たしていく決意です」

とおっしゃったそうです。
これはおそらく氷川清話の中にある勝の言葉

政治家の秘訣は、何もない。ただただ正心誠意(せいしんせいい)の4文字ばかりだ。この4文字によりてやりさえすれば、たとえいかなる人民もこれに心服しないものはないはずだ。

という言葉を踏まえた演説だと思いますが、勝なら原発問題についてどう言うでしょうね。
それとも、やはり政治家は「どれも飼い殺し」でしょうか。

足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)(Wikipedia)
または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県群馬県渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山公害事件。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っている。

って、100年前の問題どころか現在進行形の問題だったんですね・・・・!
ちなみに足尾銅山と言えば、田中正造ですよね。

田中 正造(たなか しょうぞう)(Wikipedia)
天保12年11月3日1841年12月15日) - 1913年大正2年)9月4日)は、日本政治家。日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を告発した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名、兼三郎下野国小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。

勝は鉱毒事件の運動家である田中正造にこんな証文を書いています。(原文ではありませんが)

「宛名 阿弥陀様、閻魔様 百年後の浄土もしくは地獄で必ず田中正造を内閣総理大臣とする 請負人 半死老翁 勝安芳」

これは海舟語録にあった話です。
この証文を貰って田中正造は大層喜んで帰ったのだとか。 二人とも変人や・・・・
百年後の地獄か浄土で田中正造は総理大臣になったんでしょうか。
原本は残ってないのでしょうか・・・気になる。

田中正造が「死を覚悟して」臨んだ明治天皇への「直訴」
これは勝の死後に行われています。
まさか、勝先生に頼れなくなった田中さんが思い余って行動に移したんじゃ・・・

東北の津浪について

天災とは言いながら、東北の津浪は酷いではないか。
政府の役人は、どんなことをして手宛をして居るか、法律でござい、規則でございと、平生やまかしく言い立てて居る癖に、この様な時に口で言う程に、何事も出来ないのを、おれは実に歯痒く思うよ。
全体人間は幾ら死んで居るか、生き残りたる者はまた幾らあるか、おれは当局で無いから知らないけれども、兎にも角にも怪我人と飢渇者とは、随分沢山あるに相違はない。
この様な場合に手温るい寄附金などと言うて、少しばかりの紙ぎれをやった処が、何にもならないよ。


これも東日本大震災のことではありません。
明治三陸地震で起きた東北の津浪についての言葉です。

明治三陸地震(めいじさんりくじしん)(Wikipedia)
明治時代の日本三陸沖で発生した地震である。1896年明治29年)6月15日午後7時32分30秒、岩手県上閉伊郡釜石町(現在の釜石市)の東方沖200km北緯39.5度、東経144度 [注 2])を震源として起こった、マグニチュード8.2- 8.5[注 3]という巨大地震であった。
この地殻変動によって引き起こされた津波は、当時、本州における観測史上最高の遡上高[注 4]である海抜38.2mを記録するなど、津波被害が甚大であった[3]。また、明治元年1868年)にその名称が成立した後も行政上の地名として使われるのみで一般にはほとんど普及していなかった「三陸」という地名は、この津波を機に広く日本人が知るところとなり、さらに「三陸海岸」「三陸沖」などという名称も派生した[3]

鉱毒問題にしろ東北の津浪にしろ平成は明治から学ぶべき点が多いのかもしれませんね。

総理大臣について

海舟座談より
中島謙吉(明治の教育家)の「閣下(海舟)が総理になれば誰を使いますか?」という問いに対して勝がこう答えています。

今ので充分サ。
誰でもいいのだ。コノ方は始めから、人を変えるというが大嫌いだ。
どれも飼い殺しと言うのだ。
ナニ、根本的改革というのが間違いだ。
中島が今幾歳だか知らないが、二十年も二十五年も経って、それで細君を改革するかい。
それ御覧ナ。
改革などと言うからいけない。

政権交代だの総理の交代だの内閣改造だのと言いますがどれも「飼い殺し」なのかもしれませんね。

人物について

氷川清話より

ぜんたい大きな人物というものは、そんなに早く現れるものではないよ。通例は百年の後だ。
いまいっそう大きな人物になると、二百年か三百年の後だ。それも現れるといったところで、今のように自叙伝の力や、なにかによって現れるのではない。二、三百年もたつと、ちょうどそのくらい大きな人物が再び出るのだ。そいつが後先のことを考えてみているうちに、二、三百年も前に、ちょうど自分の意見と同じ意見をもっていた人を見出すものだ。
そこでそいつが驚いてなるほどえらい人間がいたな。二、三百年も前に、今、自分が抱いている意見と、同じ意見を抱いていたな、これは感心な人物だと、騒ぎだすようになって、それで世に知られてくるのだ。知己を千載の下に待つというのは、このことさ。

えーと、「通例」であればそろそろ現れているはずですね・・・・・。
こんな言葉もあります。

近ごろ世間で時々西郷がいたらとか、大久保がいたらとかいうものがあるが、あれは畢竟(ひっきょう)自分の責任を免れるための口実だ。
西郷でも大久保でも、たとえ生きていているとしても、今ではもはや老いぼれ爺だ。
人をあてにしていてはだめだから、自分で西郷や大久保の代りをやればよいではないか。
しかし今日困るのは、さしあたり世間を承知さするだけの勲功と経歴とを持っている人材がいないことだ。
けれども人材だって、そうあつらえ向きのものばかりはどこにもいないさ。
太公望は国会議員でも、演説家でも、著述家でも、新聞記者でもなく、ただ朝から晩まで釣りばかりしていた男だ。
人材などは騒がなくても、眼玉一つでどこにでもいるよ。

現れているかもしれないけれど「眼玉一つ」持っている人物がいないんでしょうか・・・。
さて100年前の勝海舟の言葉如何だったでしょうか。
確かに私たちは「もしもあの時代の人が今いたら・・・」などと考えがちですが、
「人をあてにしていてはだめだから、自分で代わりをやればよいではないか」
・・・ってことなのかもしれませんね。
大久保さんは悪評高くて暗殺されたのに死んでからは「大久保がいたら」なんて言われてるんですね・・・・。

2012年4月16日月曜日

久しぶりにR3.1でツーリング~神戸の史跡を巡る旅~

ここはどこでしょう?
春のうららかなお天気がとても気持ち良かったのでひさしぶりにクロスバイクでツーリングに行ってきました。
自転車に乗ったのはなんとほぼ一年ぶり。
最近、自転車をメンテナンスしてもらいさらに重かった荷台を軽い純正のものに変えてもらいました。
(前の荷台は頑丈だと評判だったので買ったんですが重すぎて乗る気になれなくなってた)
ジャイアント純正のリアキャリアはアルミで軽くていいです。
自転車は放置しておいてもメンテナンスしてもらえばすぐにまた乗れるのが良いですね。
さて、今回は行ってみたいところもあったのでお花見がてらスタート!
なお、今回カメラを忘れたため携帯で撮った写真(しかもTwitterにうpしたものを使い回し(笑))を特大表示にしているため見苦しいかと思いますがご了承ください。
(久しぶりの記事なのに・・・)

スタートから30分ほどで到着したのは須磨区の妙法寺川
大きな桜が川沿いに咲き誇っており思わず目を奪われました。
さて、そこにあった地図を見てみると何やら近くに須磨離宮公園がある様子。
実は先日、「四季トリコロールカード」なるものを購入したのです。
この900円のカードを買うと「相楽園」「須磨離宮公園」「森林植物園」の年間入場料が無料に!
カードをちらっと見せるだけで入れちゃうんです。
大体、入場料って300円ほどなので三回いけば元が取れちゃいます。
うちの近所に「相楽園」という素晴らしい日本庭園を持つ施設があるんですがそこによく散歩がてら行くので買ってしまいました。
せっかく買ったのでどうせなら、とトリコロールカードで無料となる須磨離宮公園へ。
もみじの滝
須磨離宮公園(Wikipedia より)
本園(面積58ヘクタール)は月見山とよばれる景観地に位置しており、1907年(明治40年)に大谷光瑞別邸を宮内省が買収して1908年(明治41年)に起工し1914年(大正3年)に完成した旧武庫離宮(須磨離宮)である。
庭園は福羽逸人が設計を行った。当時建設された離宮御殿など建造物群の大半は1945年(昭和20年)に戦災で消失した。庭園は可能な限り竣工時の状態に復元整備され今上天皇(当時皇太子)御成婚記念として、1967年(昭和42年)に須磨離宮公園として神戸市に下賜された。
植物園(面積24ヘクタール)は戦前の神戸経済を支えた岡崎財閥の旧岡崎邸の敷地と建物を1973年に神戸市が買収したものである。旧岡崎邸の洋館阪神大震災により倒壊した。本園と植物園は専用の歩道橋で接続する。
2006年12月、隣接する神戸女子大学とCP(キャンパス・パーク)提携を組み、様々なイベントを行っている。

岡崎財閥といえばよく「華麗なる一族」のモデルと言われることが多い財閥ですね。
須磨離宮公園は思ったよりも広くて和庭園と温室のあたりしか行けなかったんですが、西洋庭園なども素晴らしいようですね。
小さいころ何度か来たような気がします。
そして目的地に到着!
正解は「明石藩舞子台場跡(舞子砲台)」でした
明石藩舞子台場跡(Wikipediaより)
幕末文久3年(1863年)、将軍徳川家茂による大坂湾の海防状況視察の際に、砲台拡充の幕命を受けた明石城松平慶憲により築造された。工事は勝海舟の設計・総指揮、設備担当は幕使佐藤與之介、施工は明石藩で、ほか神戸海軍操練所等の協力による。竣工は1865年
建設の目的は、淡路島北端(淡路市)の徳島藩松帆台場跡(国の史跡)と対になって両岸から明石海峡瀬戸内海と大阪湾をつなぐ海峡)を通過する黒船を挟撃することであったが、一度も使用されることはなく現在に至っている。

何故ここに来たかったのか?
実は去年放送していたJIN-仁-というドラマで幕末という時代にハマりまして、 しかもその中でも坂本龍馬ではなく勝海舟に惚れこんでしまったんですね。
「氷川清話」「海舟座談」「海舟語録」果ては「夢酔獨言」まで読みました。
(っていうほどあんまり読んでないな・・・(笑))
幸いにも私の住んでいる神戸は彼の史跡がいくつか残っているので少しずつ訪ねていっているのです。
特に家の近所に残っていることが多いのでよく散歩がてら行きます。
勝海舟寓居跡・海軍営の碑(金星台)・海軍操練所跡etc
・・・・で、こちらは勝海舟設計の砲台(正しくは台場跡・砲台型のベンチがあるくらいです(笑))
興味のない人が見れば「ナニコレ?」ですが、勝ファンの私は「ここに勝先生もいたんだ・・・」と思うとそれだけで満足です(笑)
神戸という街はもともと大好きな街ですが勝海舟にハマってからより「神戸に住んでてよかった」と思います。
ここからは明石海峡大橋も見えます(海水浴?してる少年たちが・・・早くないか?;)

続いて参りましたのはこちら 
ここでコンビニで買っていたサンドイッチとおにぎりを食べました
舞子公園(Wikipedia)
垂水区の西側あたりから明石市の東あたり一帯の浜を、古くは舞子の浜と呼び、須磨の浜と並ぶ名所で、江戸時代には旅の休憩所として多くの待合茶屋が存在した。明治時代に入ると明治天皇有栖川宮がよく訪れ、明治21年に有栖川宮別邸舞子ビラ)が設けられてからは、政財界人の別邸が近隣に建設されるようになった。現在はその舞子の浜の松林を含む一帯は公園として憩いの場となり、岸壁には釣り人がいる。週末には、明石海峡大橋などを見にくる観光客が数多く訪れる。

近くにある舞子ビラは有栖川宮別邸なんですね。
個人的に有栖川宮威仁親王は日本の皇族が誇る明治一の美男子だと思っており彼が亡くなった場所がこの有栖川宮別邸(舞子ビラ)ってことでちょっと気になっていたんですが、「宿泊施設」「結婚式場」というイメージがあり結局素通り。
HPを見てみると日本料理のお店とお寿司のお店の名前が「有栖川」でちょっと受けました。
勝手に幕末明治美男子ランキング 1位有栖川宮威仁親王 2位東郷平八郎 3位勝海舟
名前のリンクで各人物のGoogleの画像検索に飛びます。

今、気づいたけどこのランキング全部海軍の人じゃないか(笑)
本音は一位に勝海舟を入れたかったけど一般の理解を考えてこういう順位に(笑)
私が写真を見ていつもニヤニヤするのは勝海舟です(断言)
でも美人さんなのに油断してる写真が多いからか時々あんまり美人じゃないんですよね・・・。
(「てやんでぇ!」って言われそう(笑))
若いころの「どこのええとこのぼっちゃん?(・・・・これでべらんめぇかよ)」みたいな写真も
カメラをにらみつけてニヤリと嗤っているようにも見える写真も(化けもんだ・・・と本能的に思った)
オールバックでガラス玉みたいな黒くて虚ろな瞳の写真にもすべてに「味」があって好きです。
語りだすと止まらないのでこの辺で。

さて、お昼ご飯を食べたら今度は来た道をひたすら戻ります。
舞子から須磨へ
そしてここにも史跡があるのです。
熊谷直実に討たれた16歳の笛の名人として有名な平敦盛の敦盛塚


平敦盛(Wikipedia)
笛の名手であり、祖父平忠盛鳥羽院より賜った『小枝』(または『青葉』)[1]という笛を譲り受ける。
平家一門として17歳[2]一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った[3]。この事から、直実の出家の志が一段と強くなったという発心譚が語られる。「延慶本」や「鎌倉本」では、直実が敦盛の笛(または篳篥)を屋島にいる敦盛の父経盛の元に送り、直実の書状と経盛の返状が交わされる場面が描かれている。


ここは胴塚で首塚は敦盛の笛と共に近くの須磨寺にあります。
隣には敦盛そばが食べられるお店もあります。 帰りは清盛ゆかりの地をめぐって和田岬へ そのとき視界に飛び込んできたものは・・・・!

どーん!(二度見しました)
Twitterでご好評いただいたこちらの像
名を清盛くんと言います。
清盛くんていうよりなんか悪巧みしてるおっさ(ry
(腕を組んでるのがまた良い味だしてます)
地図も何もなくふらふらしていたのですが、ところどころに清盛ゆかりの地を表す地図が立っていたのでそれを見ながら行ってみました。
清盛塚
昔からの言伝えで清盛の墓だと言われていたが大正時代の道路拡張工事に伴う移設の際の調査で墓ではないことが確認され移設された。(解説文より) 
清盛像(清盛くんよりイケてますね、鑑真和上のようにも見える)

琵琶塚
清盛の弟の恒盛の長男恒正(さっきの敦盛の兄)の墓と伝えられてるもの。
清盛塚と同じく大正時代に移設された(解説文より)

そして最後は・・・・・・
平相国廟 我が国唯一、将軍平清盛公墓処
平清盛(Wikipedia)
伊勢平氏棟梁平忠盛の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任ぜられる。娘の徳子高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語[1])と言われる時代を築いた(平氏政権)。
平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

今、大河ドラマで話題の平清盛公のお墓が能福寺というお墓の中にあります。
昔来たことがあったんですが、「そんなの全国にあるんでしょ?」と思ってました。
なんと我が国唯一なんですね!
平清盛、歴史的には悪者に描かれたり、嫌われたりしてるイメージがあるんですが、
(私は好き)Wikipediaでこんな記述を見つけました。

十訓抄』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせてやった」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。

『平家物語』においても若い頃に世話になった藤原顕時の息子である葉室行隆が苦境に陥っていることを知り、援助を申し出るなど、義理堅い一面が描かれている。

結構、大河の清盛像に近いのかもしれませんね。

その隣にあるのは兵庫大仏
兵庫大仏(Wikipedia 能福寺の項目より)
1891年(明治24年)に豪商・南条荘兵衛の寄進により大仏が建立された。この大仏は1944年(昭和19年)に金属類回収令で国に供出されるまで日本三大大仏の一つに数えられた。
現在の大仏は1991年(平成3年)に再建されたものである。毘廬舎那仏(光明遍照)像で、像重量約60t、像高11m、蓮台と台座を含めると高さ18mになる巨大な坐像である。1991年5月の開眼法要には、東大寺管長、高徳院貫主が臨席した。

この大仏も金属類回収令の犠牲となったんですね。
他には大倉山にあった伊藤博文像なんかも金属類回収令の犠牲となっています。
(こちらは台座が残っているだけで再建されておらず)
太陽がまるで後光のように見え、何やら有難かったです。
大河の影響か前に来た時よりも人が多かったような気がします。
このほかにも清盛ゆかりの地は神戸にたくさんあります。
清盛だけでなく意外と神戸は歴史な街でもあります。
また神戸の史跡を巡る旅、したいなぁと思っております。
帰ってきてから「和田岬砲台(勝海舟設計)」があることを知りました・・・・(涙)

さて、私が走った総走行距離は「41.47km」
ある方に「もうすぐでマラソンと同じ距離になってましたね」と言われ始めて気づきました。
どうせなら42.195km走ればよかったかな?
翌日の今日、足はなんともないんですが上半身の首回りが少し張っています。
日頃の運動不足が身に沁みますです・・・。
あといつも走っていると二の腕が痛くなるので二の腕対策に良いのかも?
おつかれさまでした!

この日巡った史跡や公園の数々

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