2012年5月29日火曜日

初めて着物を買って実質三日で京都に行くまでにやった8のこと

着物で京都に行ったときの写真

普段着として自分で着物が着たい!潜在的にそう思ってる方って案外多いんじゃないでしょうか?
私もその一人でした。
ただ、普通の人とちょっと違ったのは「よし、京都に着物で行こう」とほとんど思いつきで決めたことでしょうか。
しかも、友達と一緒に行く京都旅行は3月22日 思いついたのは3月14日 つまりあと8日!
来週の木曜日に京都旅行に行こうと言っているのにその前の週の水曜日に思いついてしまったのです。
仕事があるのでまるまる一日使えるのは実質3日間のみ(土・日・祭日)
さらに私はこの時点で着物を持っていませんしまったく着物に対する知識はありません。
びしっとした正統派の着付けではなく「友達と行く京都旅行に着物で行きたいな♪」という気持ちから派生しているので着付けもええ加減なものですが、同じような気持ちで着物が着たい!と思っている人の参考になればと思います。
着物のハードルを下げるぞ!
※この記事は私の経験に基づく独断と偏見により書かれています。


【1】8日前の水曜日・楽天で「洗える着物デビュー福袋一式セット」を購入
「今度、京都行くとき着物着て行ってもいい?」とあらかじめ友達に聞いて許可を得てます。

確か私が買ったときは最低限必要なものが揃って7999円だったかと思います。
時期など寄って金額が変わると思うので興味のある方は実際に調べてみてください。
着物が届くまでの2日間はひたすらネットで着物について調べるのみ。・・・それしか出来ませんから。
日数がないのでそもそも着物着付け教室に通うことなど不可能、その上肝心の着物すらまだ手元にありません。
無謀
京都旅行6日前の晩、ようやく着物とご対面。
2日で届けてくれるお店の迅速さがあったからこそなせる無謀な試みです。

ポリエステルの洗える着物(袷)と半幅帯

柄などは選べず基本的にざっくりした希望を伝えてお店の方が選んだものが送られてくるようです。
最初は可愛すぎるかと思いましたが友達や母親からはかねがね好評、よかったです。

【2】6日前の金曜日の晩に着付けDVDを見る。
着物にセットで着いてきた無料着付けDVDを見ます。
寝る前にざっくりと。でも眠たくてうとうとしながら見たような・・・・・。
着付けDVDがなくてもネット上では着付けの方法を動画で配信しているようなのでそちらでも大丈夫だと思います。

【3】5日前の土曜日、とりあえず着てみる。(事実上の1日目)
着付けDVDは昨日見て「ざっくり」わかったから、まぁいいや。
要は長すぎる着物の丈を腰紐を巻くことで長さを自分の丈に合わせるんです。
iPod touch片手にネットで調べながら細かい着方を調べて着てみます。

着物の着方(All About)
帯の結び方(All About)
インターネットで学ぶ着付入門講座
着物の着付け方(ライフ・ウィズ・さが美)

・・・・とこんな感じで「着物 着方」で調べれば様々なサイトで着方について事細かく説明してくださっています。
サイトによって着方が違う場合もありますが自分が理解できる方法でいいんじゃないでしょうか。
着物初心者が自分で着物を着る大きなポイントは半幅帯だと思います。
初心者が一番最初に着物についてハードルを感じてしまうのは、やっぱり帯結び。
普通、着物の帯結びと言えば名古屋帯などでのお太鼓結びですが帯枕が必要だったりして少し難しいんですよね。
その点、もっと幅が狭い半幅帯は浴衣にも使われるとてもカジュアルな帯で名古屋帯などに比べてとっても簡単
もちろん、浴衣だけでなく着物に結んでも大丈夫です。
くねくね折り返してクルリと巻くだけの文庫結びや蝶々結びが出来たら結べる簡単なリボン返しなど浴衣感覚で帯結びが出来ちゃいます。
少々帯結びが上手に出来なくても寒い時期なら上から羽織を羽織っちゃえば大丈夫。
要はほどけなければいいんです。ざっくり過ぎ
着方さえ頭で理解してしまえば、あとはひたすら練習あるのみ。
着物って技術云々よりも肝心なのは慣れ。
いかに回数をこなすかが肝だと思います。
・・・というわけでひたすら練習。
脱いで着て反省点を見つけてまた脱いで着て・・・・と練習あるのみ。

【4】練習してある程度自信が付いたら思い切って外に出かけてみます。

もっとも、私は練習する前に外に出かけてしまいましたが。
着物着てみたら我慢できずに外に飛び出しちゃいました(子供か)
※着物でお散歩しながら一時間かけて実家に帰ってしまいました。
※到着したころには実家の母親には「着物がフレアスカートになってる・・・!」とおののかれました。みなさんは真似しないように。

着物って着てるだけでなんだか特別な感じがして楽しいんですよね♪
しかし、さすがにフレアスカートと言われたら反省せざるを得ませんので家に帰ってようやくひたすら必死で練習開始。
みなさんは練習してから外に出てください。
ネットを見ているとお直しおばさんなる「着物を着ている若い女性がいると帯や衿の抜き方を注意してくる年配の女性」がいるという噂を聞いていたのですが、フレアスカート状態で休日の北野異人館街を歩いていても特に何も言われなかったので期待はずれ(?)でした。 
むしろ直してほしかった・・・特にうちには全身を映す鏡がないのでフレアスカート状態になっててもわかりにくいんですよねー・・・。
まぁ、そういうおばさんの存在が着物のハードルをあげてるのかもしれませんが私は「無料着付け教室がやってきた!」と思うようにしてます。まだ会ったことはない

【5】反省点を見つけてまた練習
着物で外を歩くと自然と「ここはどうしたらいいんだろう?」「これはこうしたほうがいいのかな?」など家で着ているだけではわからなかったことが見えてきます。
その都度、ネットで調べて解決することもあれば脱いだり着たりの練習で自然と直っていたりします。
私はお端折りのつなぎ目の処理が上手くできなくてもこもこしてたんですが練習しているうちに綺麗になってました。

【6】4日前の日曜日着物で再び外出、近所のリサイクル着物屋さんへ(事実上の2日目)
朝からひたすら練習して(というか練習が楽しい)再び外へ。
フレアスカートになってないことを確認して思い切って近所のリサイクル着物屋さんへ向かいます。
ちなみに私がお世話になったのはたんす屋さん。
全国にあるので行きやすいと思います。ちなみにうちの近くには四店舗もあります・・・何故・・・
着物であれこれ見てると店員さんが話しかけてくださるのでそうなったらしめたもの。
リサイクル着物を一着買いがてら、店員さんに「実は昨日初めて自分で着物を着たんですよねー」と弾む会話のついでに切り出すと「今、お時間大丈夫ですか?」とご厚意で着付けをし直してくださることがあります。 「初めてにしたら上手よ~!」とも褒めてもらい少し自信が付く。
その手順を見ながら必死で勉強 でも、鮮やかすぎて「すごーい」だけで終わってしまった・・・。
ちなみにたんす屋さんでは一時間500円のワンコイン着付けもやっているみたいです。
自信がなかったらそちらで教えていただくのも手ですね。店舗によるのかもしれませんので要確認

【7】ちゃんと着付けてもらった着姿をデジカメで撮影
どういう状態なのが正解なのか覚えておくために脱ぐ前に撮影して残します。
そして再びその状態に近づけられるよう練習。
翌日の月曜日も帰ってきてから一二度練習。

【8】2日前の火曜日着物を着て着物屋さんに行って羽織や着付け小物を買う。
ついでに着付けを教えてもらう。(事実上の3日目)
火曜日はたまたま祭日でお休みでした。
そこで三月下旬とはいえ京都はまだまだ寒いかなーと思い急遽Wakonさんにて羽織を購入。
あとたんす屋さんで話していると「セットで付いてきた付属の腰紐二本とマジックベルトの伊達締めだけでは不安」と思い急遽コーリンベルトも購入しました。
ちゃっかり、「着物一昨日くらいに着始めたばっかりで自信ないんですけど・・・」と軽く着付けも教えてもらう。
そして「初めてとは思えないくらい上手ですよ~!」とおだてられ自信をつける。
Wakonさんは若い人向けな可愛い着物や小物が合ってセンスが大好きです。
わからないところやどうしてるのかな?と言うところを店員さんに聞いて教えてもらいます。

その後もコーリンベルトつけて着てみたり・・・とひたすら試行錯誤しながら練習してから本番の京都旅行を迎えました。
今回の着物で京都旅行、思いつきの無謀とも思える企画でしたが、やってよかった♪と思います。
一緒に行ってくれた友達からも「着物を着ている貴女の方に店員さんが行くからゆっくり買い物できた」と好評?でした(笑)

コーディネート
着物で京都へ旅行に行くにあたって当日の私のコーディネートをここで紹介させていただきます。
着物と言えば草履ですよね、実際着物セットを購入すると足袋と草履がセットで付いてきました。
でも、履きなれない草履で京都観光はしんどそう・・・。
そこで私が着物に合わせたのはブーツ
袴にブーツはもはや定番スタイルとなっているので着物でも大丈夫かな・・・と思ったら結構普段着物では着物にブーツを合わせてる方って多いんですね。
歩きやすいし、着付けの時に丈を変えることでイメージも変わります。
最初は無理することなく自分が取り入れやすいものを着物に取り入れて着た方がいいと思います。
たとえば足が痛いのに無理して草履履いたりなどの・・無理をしちゃうとどんどん着物を着るのが億劫になっちゃいますから。
ブーツで京都の錦市場に行ったらお店のおばあちゃんに「まぁ、着物にブーツ!?素敵ねぇ」と言っていただけました。
京都に着物でブーツなんて恰好で行ったら怒られるんじゃないかと実は内心ひやひやしていたのでよかったです(笑)

肌襦袢
着物は肌襦袢と裾避けという長襦袢の下に着る専用の下着があるんですが私はめんどくさかったのでユニクロで買った襟ぐりの大きな薄手のシャツとレギンスです。
ちょっと着物が身近になったと思いませんか(笑)
半襟
着物からちょっと覗いている襟の部分のことです。
ここの色をちょっと変えるだけで印象が変わります。
ちなみに私はユザワヤなんかの手芸屋さんで縮緬なんかの生地を安く買って布用両面テープで貼り付けて使ってます。
これだと気分に合わせて簡単に半襟を変えることが出来るのでお勧めですよ~。

着物ってこれ以外にも帯締めや帯揚げ、根付などの小物でもコーディネートが出来るのでとても楽しいです。
お洒落感覚の普段着着物であれば、結構自由度は高いんです。
着物と言っても要は服なので好きなものを着てしまったもの勝ちだと思います。
最近ではカジュアル着物女子コンテストなんてコンテストもあってみなさん現代風に好きなようにアレンジして着物を着ています。
現代の着物って「こうでないとダメ!」というイメージがありますが、昔はそれこそ好きなように着ていたんですもんね。
私はとても素敵だと思います。
ちなみに私はおせんというドラマの蒼井優さんの着物のセンスが大好きですね。
「着物はこう着ないと」というイメージがありますが、着物愛好家の人ほど着物の着方に関してはむしろ寛容な方が多い様に思います。そんなこと言っていられないくらい着物人口が少ないですから・・・。

「難しいから」「着付け教室に通わないと着れない」なんてイメージがありますがたんす屋さんでもWakonさんでも「要は慣れ」とおっしゃっていたのが印象的でした。
綺麗に着るには着付け教室に行くのが一番ですが、「ちょっと普段着感覚で気軽に着たい」という人にとってはハードルがありますよね。
そんな人にも独学でもひたすら練習すればなんとかなる!と背中を押したいと思います。
実際、着物を着たいということは半年以上ずーっとそう思っていましたが着付け教室に行かなきゃいけないのかな・・・というのに気おくれしてまったく行動に移せていませんでした。なのに突然こんな暴挙に(笑)
着物を普段着として来ていた時代にはそれこそ着付け教室なんてありませんでしたし着方だって適当なものです。
今のように着物は美しく着なければならないということもなく千差万別だったと思います。
何より着ているだけで「自分で着たの?凄いね!」って言われるのは洋服ではありえない快感があります(笑)
団体で着ているだけで日本人と思われなかったり、日本人の日常からどんどんかけ離れた存在になっていく着物ですが一人でも多くの人に着てほしいなぁと思います。
自分で着たら苦しくないし、何より洋服と違って少々太ろうが痩せようが着れますし(笑)
これからのシーズンであればまずは浴衣にチャレンジしてみてもいいかもしれません。
浴衣が着れたら半幅帯であれば着物も同じです。中に長襦袢着るだけです。
ぜひぜひチャレンジしてみてください、そして着物人口増やしましょう!


最近の着物写真

2012年5月24日木曜日

【ようこそ】キモノジャックin神戸【神戸へ】

ジャックだー!

キモノジャック(英: kimonojack)は、京都府で和装振興を願った11名によって立ち上げられた同振興団体。
twitterを使用し着物である場所を埋め尽くせ」という指令の元、京都の観光地を着物姿の人々で埋め尽くすイベント「キモノでジャック」を開催。(Wikipediaより)

「参加表明無用」 「途中参加OK」 「途中離脱OK」
・・・というゆるい感じの着物イベントでございます。
目的は、とにかく着物でターゲットを埋め尽くすこと!そしてその地域活性化も密かな目的なんだとか。
このキモノジャック!着物に興味を持ってから「いつはかキモノジャック」と憧れていたんですがついに行われる日が来ましたよ!5月13日しかも初の遠征先は地元神戸!

キモノジャックのHPはこちら

これは行かねばならんでしょう!と言うことでさっそく参加してきました♪

こんな感じ(着付けが色々酷い)
ちなみにこの着物は母親が18歳の時に買って以来しつけ糸が付いている真っ新な状態で保管していたものを貰いました。

足下は河原町で買ったsousouの地下足袋

三月の末頃に何もわからない状態で着物を買って着始めてから二か月弱 このいきさつについては別記事にて
さっそく飽きてきはじめたという危機感の中、なんとかせねばと焦りを感じ始めていた私にとってはまさに渡りに船のこのイベント。
この機会に新しいことに挑戦してみることにしました。
名古屋帯でお太鼓
今まで半幅帯で文庫結びとか元禄結びとかはやってたんですが、少しマンネリ化・・・・。
「半幅でいいわぁ~、楽だし・・・名古屋帯持ってないし」とか思ってたんですがサザエさんのおフネさんを見ていて「お太鼓もいいなぁ」と思うようになりこの機会に名古屋帯を買ってみました。
リサイクル着物の中華街のたんす屋さんにて5000円!
状態もよくいいお買いものしました♪
それがキモノジャックの三日前
・・・・で、iPod touchを片手にお太鼓結びの結び方を調べて格闘すること数時間。
なんとか結び方は覚えてあとは慣れるだけ、ってところで我慢しきれずキモノジャック前日に神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅へレッツゴー
・・・・で、本番ですがお太鼓だけで40分くらい時間がかかったため自宅から徒歩20分で着く集合場所の南京町の広場に集合時間の13時までに到着できずジャック写真には失敗・・・・・・ あほや・・・・


遅ればせながら到着したときの南京町の広場の様子

南京町での写真には参加できませんでしたが、それにしてもネットでいつも「着物」で画像検索して着物姿の人を見て悦に入っていた私としては夢のような光景・・・・。
しかもそれが地元神戸で見られるなんて・・・・・としばらくは感激に浸っておりました。
とにかく可愛い!カッコいい!
普段見かける着物ってほとんどが「お稽古に行くような年配の女性」なのでおとなしめなコーディネートが多いんですが、ここではもうみなさんが思い思いの着物を好きなように着ていらっしゃってみんな素敵なんですよね~♪
着物と言うと苦しい、しんどいというイメージがあるかもしれませんが自分で着たら案外そんなことないんです。
一人で参加していたので、「入れるかなぁ・・・浮くかなぁ」と心配してましたが、(実際最初はぼっちだった)
運営のメンバーと思われる方々が積極的に話しかけてくださったり、一人参加者同士を紹介して仲良くしてくださったりと動いてくださったのでとても楽しめました♪
普段は京都でやっているイベントだけあって京都からお越しの方も多かったのですが、
中には和歌山からお越しの方もいらっしゃったり愛されているイベントなんだなぁ、と改めて思いました。
・・・で、参加者の方と仲良くなっておすすめのリサイクル着物屋さんの最旦館ケイコさんにお邪魔してきました!
こちらのお店、地下にあってしかもちょっとわかりにくい場所にあります。
私はネットでこのお店を知ったんですが、たぶんそうでなかったら知らなかったと思います。
ですが、さすが着物のお姉さま方・・・・私たちが着物を見ていると次から次へとキモノジャックの参加者の方々が階段を下りてきます(笑)
やっぱりみなさんご存じなんですね!
今までだと一人なのであんまりゆっくり着物を見れなかったんですが、今回はたくさん仲間がいたせいか肝が据わって色々着物を見ることが出来ました。
アンティークな感じの可愛い着物もたくさんあって、しかも3000円とかで売ってます。
よし、今度買いに来ようと密かに決意いたしました。


・・・・で、13時のジャック写真には写れませんでしたがまだチャンスはあります。
15時集合のポートタワー前!

神戸を着物でジャックだー!

でも、私は写真撮ってたので残念ながら写ってません(笑)
みなさんいい笑顔です。
自然体で好きな着物を好きなように着てるからきっとこんな素敵な笑顔なんでしょうね♪





着物美人(男女含め)にうっとり・・・・。
しかも、神戸にこれだけいるなんて!・・・・とひたすら感激しておりました。
物凄い素敵なオジサマに話しかけていただいたんですが、「あの・・・」とそのオジサマが口を開く前に思わず
「わっ!凄い袴カッコいいですね!それに合わせたハンチング帽がまた素敵で・・うわぁ・・・!」
・・・・と一人で喚いてしまいました、大変失礼いたしました・・・・
ちなみにそのオジサマは上の写真の左奥にいらっしゃる方です、大正時代とかに居そうな素敵なファッションですよね!

奥様と一緒にいらっしゃってたんですが、どうやら奥様が私の履いていたsousouの地下足袋が気になったご様子。
sousouは持っているけれど私の持ってる柄の地下足袋は知らなかったそうで、それで話しかけてくださってみたいです。
奥様の着物も粋でとても素敵な着物ご夫婦でした♪


履いててよかったsousou地下足袋

悔やみきれないのはあまりに素敵なコーデだったためにテンションが上がりすぎて写真を撮らせていただくのを忘れたことです・・・・・。

で、その後「神戸の街を案内しますよ!」とばかりに仲良くなった方々と一緒に繰り出したのですが
あまり普段「神戸観光」を意識していないせいか、はたまた緊張しすぎで道忘れたのかろくな案内が出来ずにお手間を取らせてしまいちょっと落ち込んでます。
うーん、反省・・・・
着物の皆さんと歩いていて面白かったのが、向こうから着物の若い女の人が歩いてきたときに
「あの人は我々の仲間か・・・・?」
「いや、キモノジャックの撮影メンバーにあの人はいなかった・・・」
みたいな会話になったことです(笑)


私は参加しなかったんですが、その後みなさんで大阪で開催された飲み会に行かれたりと、このイベントでとても着物の輪が深まった気がしました♪
今度は夫婦で参加したいなぁ・・・・・チラッ

神戸は元町商店街、三宮センター街ともにびっくりするほど着物屋さんが次々に出来ています。
一方で着ている人をみることはまずありません。
以前、四時間ほど元町商店街とセンター街をふらふらしましたが着物を着ていた人は二人。
それもお稽古ごとに行くような年配の女性でした。
つまり、若い人でかつ着物をファッションとして来ている人はほぼ皆無。
たんす屋さんのようなお手軽に手に入るリサイクル着物のお店もありますし、Wakonさんのような若者向けの着物屋さんもありますし、もっと着物人口増えたらいいなぁと思います。
そのためには着物を着ている人がたくさん街に繰り出して着物姿を見せることで「着物っていいなぁ」って思ってもらえる人を増やすこと。
キモノジャックのようにたくさんの着物を着ている人が歩けばそれだけ目立つわけで、そういった意味で着物人口を増やすきっかけの一つに私も参加できていたのかな、と思うと少し嬉しいですね。
次のキモノジャックもぜひぜひ参加したいです♪

こちらにキモノジャックに参加していた巨匠佐野大先生の撮った写真ギャラリーがありますのでぜひぜひ見てください♪
素敵な着物人がたくさん写ってますよ♪

おまけ その1
「中華街ジャック写真に遅れる~!」着物で元町商店街を走って、信号待ちで息を切らしていると突然見知らぬおば様が
「その着物分かれてる奴?(二部式?)」
・・・・と話しかけてこられてびっくり。
「いえ、普通の着物ですけど・・・・あ、今日は着物のイベントがあるのでこういう人多いですよ♪」
と答えておきました。
「あら、そう!?自分で着たの!?」とびっくりされてました。

おまけ その2
今度は着物の人が多く集まる南京町広場で仲良くなったばかりの方をお話していると突然、見知らぬおば様が
「あんたら、日本人?」
・・・・と話しかけてこられてまたまたびっくり。
「に、日本人です・・・・今日は着物愛好家のイベントで・・・」
と説明しておきました。
どうやら、こんなに着物を着ている人がたくさん一か所に集まっているということで海外から来た外国人観光客の団体がレンタルで着物を着ていると思われたご様子・・・・・。

着物を観光地で団体で着ていると外国人に見えるらしい


着物は日本人の中で急速に日常とはかけ離れた存在になってるんだな・・・と改めて感じました。


2012年5月20日日曜日

神戸事件現場検証

勝海舟について調べていると、必ず検索結果に出てくるブログがあります。
紅葉かの子さんという方の食べるように読むというブログなのですがその方がご自身のHPのモノフタルモスで発表している小説がとても面白くてハマってます。
そのうちの一つ、幕末維新捕物帖というお話ではアーネスト・サトウアルジャーノン・ミットフォードが主役でイカラス号事件を追って長崎に行くお話です。
あんな偉人やこんな偉人も出てきてとても面白いのでぜひぜひおすすめです♪
私は、「ちょっと読んでみよう」のつもりでお昼前に開いたのですが面白くってついつい一気に全部読んでしまい家人に「お昼ご飯まだ~?」と言われてしまいました(笑) 彼がお昼ご飯にありつけたのはその一時間後・・・・

アーネスト・メイソン・サトウ: Sir Ernest Mason Satow枢密顧問官GCMG1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリス外交官。英国公使館通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。息子は植物学者の武田久吉。(Wikipediaより)

アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード、男爵リーズデイル卿Algernon Bertram Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale、1837年2月24日-1916年8月17日)は、イギリス外交官、収集家、作家。ヴィクトリア勲章およびバス勲章の受賞者である。幕末から明治初期にかけて、外交官として日本に滞在した。あだ名は「バーティ」。著名な「ミットフォード姉妹[1]」の祖父に当たる。(Wikipediaより)

・・・・で、そのかの子さんのブログを見ているとなにやら神戸事件について調べていらっしゃるご様子。
神戸事件?三宮神社の?
神戸の人でもピンと来る方はきっと歴史好きな方ではないでしょうか?
この神戸事件の現場になんとサトウとミットフォードの2人が居合わせていたようなんです!
これは行かねば!

ピンと来ていない神戸の人向けに説明しますと元町に大丸ありますよね?
あの大丸の前に小さな神社があります。
それが三宮神社です。
「あー・・・・そういえば、なんか神社あったな・・・・」という方もいらっしゃると思います。
そんな方もこの写真を見ればなんとなく思い出せるのではないでしょうか。


はい、この神社ですね。
写真にもあるとおり、この神社の前で神戸事件は発生してしまったのです。
では、神戸事件とは何か?
ちなみにここで言う神戸事件とは某少年犯罪事件でありません。 神戸事件で検索するとそちらも出てきますが・・・。

神戸事件(こうべじけん)とは慶応4年1月11日1868年2月4日)、神戸(現・神戸市三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえ、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎切腹する事で一応の解決を見た。
相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。(Wikipediaより)

東の文字が訂正されてるのがなんか気になりますが・・・・

事件が起きた慶応四年一月はどんな時期か?
三か月前の慶応三年十月に大政奉還が行われ、十一月には坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されています。
そして事件が起きた慶応四年一月の三日には戊辰戦争が勃発。
そんな時代背景を元に事件は発生してしまうのです。
さて、ここに一枚の地図があります。


明治初期のこのあたりの地図・・・・・・の模写です。 
神戸っ子必携(笑)の神戸今昔散歩にたまたま明治初期の地図が載っていたのでそれを見ながら描きました。そのまま載せるのは気が引けたので・・・・・
雰囲気重視で無駄に筆で描きましたが、小さく表示したらちょっとそれっぽく見える気も・・・(笑)
神戸今昔散歩の方は『神戸古今の姿(昭和4年)』を元にしているようです。
ちなみにこの地図で言えば「生田川」と「西国往還」の間くらいに勝海舟宅があったようです。
この地図とGoogle Mapを使い、どういう状況で備前藩士と外国兵が小競り合いを起こしてしまったのか見てみましょう。
まずは備前藩士の方から。
当時は前述のとおり戊辰戦争開戦直後であり備前藩は倒幕藩でした。
備前藩は幕府側の尼崎藩をけん制するため、岡山城を出発し東の尼崎へ向かっております。
悲劇の発端は、大名行列と外国人との衝突をさけるため幕府が作った徳川道を通らなかったことでしょう。
彼らは西国街道を通って尼崎へ向かっていたようです。
西国街道を通って尼崎へ向かった場合、このような道を通るつもりだったと考えられます。



今の元町商店街からこの道を通って大丸前、つまり三宮神社前に備前藩士たちは来たと思われます。

一方、外国兵たちは北から現在のトアロードを通って南に向かっていました。


・・・・・でこのような形で外国兵と備前藩は出会ってしまったのです。

1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとした[1]。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信がを持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった[2]。(神戸事件Wikipediaより)

事件が発生したと思われる場所

これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度[3]一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした[4]。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない[5]。 (神戸事件Wikipediaより)

備前藩士たちの射撃は威嚇射撃だったのか?それとも殺意はあったが命中しなかっただけなのか?
その鍵は国旗が穴だらけとなってしまったという神戸税関と発射場所にあるような気がします。
ところで、神戸税関?神戸税関の場所って・・・・


三宮神社からは縮尺変えないといけないくらいめちゃめちゃ離れてますけど・・・・。
いったいどこから撃ったんでしょうか。
直線距離でも700mくらいありそうです。


というわけで神戸税関に来ました。
ちなみにこの神戸税関があったところは海軍操練所があったあたりでもあります。


神戸税関(こうべぜいかん)は日本税関兵庫県神戸市中央区新港地区に主たる事務所を置く。
兵庫県中国地方山口県を除く)、四国地方を管轄する。 「開かれた税関」を目標に掲げ、中庭および庁舎内の一部を公開している。(Wikipediaより)

阪神大震災で半壊しましたが、外見を保全する形で改築されました。
外見が東京警視庁の旧庁舎によく似ていることからよくドラマのロケに使われるそうです。
・・・そういえば見たことあるような・・・・。

ちなみに現役

広報展示室は平日の8:30~17:00の間、無料開放しているようです。
・・・・で、ここまで来ておいてなんですが。
さすがに遠すぎるでしょー・・・弾届かんでしょー・・・・・
と、思ったところで気づいてしまいました。
現在の神戸税関があるところは新港町」
明治の終わりから大正の初めにかけて出来た地区です。
つまり、当時はまだ存在しない地区。
あれ?じゃあ神戸税関(当時の兵庫運上所)があった場所は?

やっぱり移動しておりました。


現在の神戸税関よりも西に行ったところにある神戸合同庁舎のあるところにあった様です。
さりげなく『神戸税関発祥の地』という石碑が立っています。足で稼ぐのを辞めてグーグルに頼ることにしたらしい(笑)


三宮神社とこの神戸地方合同庁舎の距離は直線距離にしておおよそ500m
うーん・・・・それでも遠いか?火縄銃で500mも飛ぶの?せいぜい数mじゃないの?
・・・・と思いましたが、ネットで調べてみるとポルトガルからの伝来当時でも火縄銃は700m飛んだのだとか。
命中精度はともかくとして飛ぶことは飛ぶようです。
仮に三宮神社を起点として発射位置を出していますが、生田馬場のあたりから撃った可能性もありますし十分届くと思われます。



Aの地点は生田馬場と西国往還が交わったところ

生田馬場からなら、直線距離にして400m程でしょうか。
ただし、気になるところもあります。

弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない(Wikipediaより)

「穴だらけにした」ってことは相当数発射され、かつ相当数が国旗を穴だらけにしたということでしょうか。
訓練不足で殺意はあったが、命中せず国旗に穴が開いてしまったのであれば、「穴だらけ」になるほどたくさんの穴が開いてしまうものでしょうか。
また、当時の神戸税関がどういった建物で何階建てでどれくらいの高さがあったのかわかりませんが人を狙って撃った弾がいくら訓練不足であったとしても400m~500mほど先の屋上にあった国旗に命中するものなのでしょうか?

もちろん、この400m~500mというのは飽くまでも備前藩士たちが進行方向である「西国街道」から居留地予定地に向かって発射したであろうという前提に立った上での推測に基づいた数値ではありますが。
さらに、火縄銃というのは小銃と比較すると直進安定性が劣るようです。
仮に400m~500m飛んだとしても弾は上に上がり続けることなくむしろどんどん落ちて行ってしまったのではないでしょうか。
落ちていく弾が屋上にある国旗に命中したということは、かなり上を狙って撃った威嚇射撃であった最初っから屋上の国旗を狙って撃ったもしくはそもそもそんな事実はなかった。
個人的にはこのどちらかだったような気がしますが、真相は闇の中です。

※追記 2012/06/01
銃に関してかの子さんから情報提供がありました。 ありがとうございます!(それにしても情報提供って書くとタレコミみたい(笑))
かの子さんによれば、ミットフォードは『アメリカから買い入れたばかりの銃であり、そのため照準の合わせ方が分からず、当たらなかった』と言っており、サトウは『元込銃』だと言っているそうです。
いずれにしろこの二人の共通認識としてはこのときの備前藩士の銃は火縄銃ではなく新式銃であったようです。 一説にはスナイドル銃であったのではないかとも。

ただミットフォードの説であれば、「鉄砲隊の全員が全員とも照準の合わせ方が分からず、間違って国旗を穴だらけにしてしまった」ということになります(本当に国旗が穴だらけになったのなら)
それならば照準の合わせ方がわからずに誤って飛んだ弾が穴だらけと言えるほど国旗に命中するのだろうか?という疑問は残ります。
あと実戦で使い方がわからないような銃を持っていくだろうか・・・?事件関係者に詳しく取材したいものです(笑)


400m先から屋上の国旗を狙うときのイメージ(ここから三つ先の信号あたりが400m先です)
どうでしょうか?・・・・・・って見えません。
さて、その後、事件は国際問題に発展していきます。

自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークス[6]は激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった[7]。備前側では、家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令、お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かった。(Wikipediaより)

パークスは激怒した。
必ずかの備前藩兵を追撃せねばならぬと決意した。

というわけで撃ち合いとなった生田川に来てみました。
川ないし。
当時、生田川があった場所、実は現在のフラワーロードです。
フラワーロードという名前のおかげで「花屋通り」だと勘違いしてプロポーズ用の花を求め捜し歩いた馬鹿がうちにいます。


というのも場所的にもしも生田川が氾濫した場合、外国人居留地に影響が及ぶということで現在、新神戸駅のあるあたりに付け替え工事が行われました。
はい、うちの実家の目の前です。
この工事を行ったのが、加納宗七
三宮周辺にお住いの方はピンと来るかもしれません。
そう、北野と三宮の間にある加納町
この地名は彼に由来しているのです。
勝先生のパトロンこと灘五郷の嘉納治右衛門(治朗作)じゃなかったんですねぇ。

ちなみにこの加納宗七さん、元は紀州藩士で坂本龍馬が暗殺された折には同じ紀州藩士の三浦休太郎がこの暗殺に関わっていた!と海援隊に情報を流し後の四代兵庫県知事陸奥宗光と一緒に襲撃しています(天満屋事件) ちなみに三浦さんは無事だった模様。
さて、国際問題に発展した神戸事件ですが、その後どうなったのでしょうか。

神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たるも決裂するに至る。(Wikipediaより)

軍事占拠はやめてください。

しかし、伊藤博文が後に初代兵庫県知事となったのもこの神戸事件の交渉にあたったからかもしれませんね。
当時、伊藤俊輔27歳・・・・・・・・。

諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、日本側としては滝の行為は、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものでもあったが[8]、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決される。
結局、2月2日2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、2月9日3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。(Wikipediaより)

この滝善三郎が切腹をした永福寺。
現在の神戸市兵庫区にあったようですが残念ながら神戸大空襲により消失しています。
ですが、滝善三郎の供養碑は現在能福寺に移されているようです。
・・・・ってこの間、平清盛のお墓見に行ったばかりだよ・・・能福寺・・・!

神戸事件はサトウやミットフォードを始めとする外国人公使の皆様の間でもいろいろ意見がわかれているようですが私は滝善三郎について書いていきたいと思います。
「赤磐郡誌」という岡山の郷土資料によれば、

善三郎は大に喜んで、主命に服する事になつた。

とこの切腹命令を受け入れています。 ・・・本当かな?
そして切腹の前にこのような意味のことを言っています。

「あの時、発砲命令をしたのはこの私、正信(善三郎)です。公法によりこのような処置となり、ここで謝罪するため切腹いたします。宜しく御検証ください。」

本当はいろいろ納得いかなかったと思いますけど、切腹前にこの言葉が言えるのは凄いなぁと思います。

きのふみし夢は今更 引かへて、神戸がうらに名をやあげなむ

こんな辞世の句を残し、切腹。
善三郎さん、このとき32歳 
28歳の奥さんと4歳の息子、2歳の娘を残し、旅立っていったのです。
ちなみにこの切腹には前述のサトウとミットフォードの英国公使コンビも立ち会っています。
そういえば、昔「切腹」について調べていたときこの時のサトウさんの冷静すぎる切腹についての記録がとても参考になったことを思い出しました。

この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港上海の様に理不尽な占領下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは日本史の流れにおいても重大な出来事であった。(Wikipediaより)

神戸が理不尽な占領下におかれるのは困る。

神戸が日本なのは当たり前じゃないんですね・・・・・。
滝善三郎が切腹しなければ、神戸が日本ではなくなっていたとしたら彼は英雄ですね。
もしも切腹させずに有耶無耶に済ませてしまっていたら、いつか因縁つけられて神戸は香港や上海のように占領下におかれ続けていたかもしれません。・・・・多分。
そういって彼の切腹を主張し続けたサトウ・ミットフォードの2人をフォローしてみる。


※ ここに書いていることは飽くまでも私の推測であり、正しいという根拠はありません。
※ そして外国人公使たちの証言等について調べておりません。
※ Wikipedia頼みです。

2012年5月16日水曜日

神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【3】

神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【1】はこちら 【2】はこちら
勝海舟ゆかりの地・・・とまではいかないかもしれませんが先ほどの海軍営之碑がある金星台を南に降りると兵庫県公館があります。

兵庫県公館(ひょうごけんこうかん)は1902年(明治35年)に建てられた庁舎建築。当初の用途は兵庫県庁本庁舎。1985年(昭和60年)からは県の迎賓館および県政資料館として活用されている。(Wikipediaより)

この兵庫県公館は1983年までは兵庫県庁舎として利用されていました。
この建物自体が建てられたのは明治35年ですが、明治6年からこの場所に兵庫県庁は設置されています。
また、現在の兵庫県庁はこの兵庫県公館の北側にあります。

何故ここが勝先生ゆかりの地?
実は氷川清話にこの兵庫県庁が出てくるのです。

「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた。今の兵庫県庁が建っているところも当時はおれの所有地だったョ (氷川清話)」

このあたりも勝先生の所有地だったんですねぇ。

兵庫県と言えば、初代兵庫県知事は伊藤博文
後の初代内閣総理大臣としても有名ですね。
1868年(慶応四年/明治元年)彼が27歳の時に兵庫県知事に就任しています。

四代目の知事は陸奥宗光
勝先生の作った神戸海軍操練所で学び坂本龍馬と行動を共にした人物です。
海軍操練所で勉強していたころにはまさか自分がここの県知事になるとは思わなかったでしょうね。

五代目の知事は税所篤
この人は海舟座談の付録にちょくちょく名前が出てくる方です。

この兵庫県公館、毎週土曜日に無料一般公開しています。
神戸大空襲で外壁以外すべて焼失したり、と明治に建てられた当時のままとは行きませんが
外装も内装も竣工当時の姿に復元されています。


さてここから南東に向かいます。
向かう先は、海のすぐそば。


そう、海軍操練所跡です。

神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代1864年元治1年)5月に、軍艦奉行勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。

この場所、神戸の中心地三宮に近いんですがなにぶん場所が南過ぎてあたりがビジネス街ということもあり地元の人でも知らないという人、多いと思います。 私もネットで知りました・・・。
ただ、勝海舟寓居跡や海軍営之碑に比べると一番メジャーな史跡ではあります。
何より場所柄一番行きやすいですしね。
神戸市立博物館を真南に行ったところにあります。



結構高いところにあるので手を伸ばしても真上から撮ることは出来ませんでした。
「どうせ、坂本龍馬一辺倒なんでしょ?」と思ってろくに読んだことなかったんですが、
読んでみたら勝海舟べた褒めじゃないですか!
どうした!?何が起きた!?天変地異か!? おぃ
どこかみたいに解体されてないし、どこかみたいに文字盤新しくなってないし一番胸を張っておすすめ出来る場所ですがよく考えたらここはただ後世の人間が勝手に建てた場所であって幕末から残ってるわけでも勝先生が触ったわけでも全くないんだった。
この石碑の中の文に 

今日、ただ遠く諏訪山公園からこの地を見守る勝海舟直筆の碑文を仰ぐことが出来るのがせめてもの救いである。 

ってありますが
今、残ってるの直筆じゃないですから 新しい石版埋め込まれちゃってますから・・・

ついでに、勝海舟寓居跡も解体されてますから 住宅地・・・


時代の流れと言うのは残酷ですね・・・・・。
ちなみに海軍操練所があった場所は石碑に書いてある通り阪神高速の高架に埋め立てられているそうです。
阪神高速といえば海軍操練所のあった場所よりも東に行ったところにある阪神高速の道路はかつて阪神大震災で道路が崩れ落ちバスが半分道路から宙に浮いてしまったというあの有名な現場です。


よくみると、本物の旧戦艦の錨を使ってるんですね。
センスいいなぁ・・・・。

ちなみにこれが昔の石碑(隣にあります)

海軍操練所跡 

大きな地図で見る

この地図を見ていただければわかるのですが、この石碑のすぐそばには海上保安部があります。
この海上保安部のある場所に海軍操練所はあったそうです。
また、この海上保安部は尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件で映像を流出させた保安官の所属していたところです。
海軍が生まれた場所を舞台に歴史というのは今も動いていますね。

さて、次から史跡らしい史跡はないです。
ただ、ネットで坂本龍馬のいた「海軍塾書生寮」の場所と勝海舟の自宅を推測している方がいたのでその推測を元にちょっとその場所まで行ってみました。 そのサイトはこちら→神戸龍馬操練所
まずは海軍塾の方から。
海軍塾とは勝海舟の私塾で坂本龍馬は海軍操練所ではなくこの海軍塾にいたのではないか、とする説があるのです。
坂本龍馬も住んでいたであろうその海軍塾の書生寮があったあたりの現在の姿(推定)がこちら


京町筋のあたりですね。
地元民向けに言えば、センター街にあるクレフィを南に行ったところでしょうか。
(ちなみにこのクレフィ、ダイエー二号店跡地でもありますが地震で潰れてしまいました。)

もっとも、神戸市だか兵庫県だかは幕末の歴史にからきし興味がないようで石碑もなければ場所に関する公式見解もなさそうなので飽くまで推測です。
西に200mほど行くと神戸事件でお馴染み三宮神社があります。
この神戸事件についてはまた別の記事にて。
三宮の繁華街の真っただ中といっていい場所です。

では、次は勝海舟邸跡です。
先ほども引用しましたが、氷川清話にある

「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた」

この生田の森の近くにあったと推測される勝海舟邸のあったあたりの現在の姿がこちら

阪急三宮駅の周辺ですね。
もっとも、広大な敷地だったと思われますので写真に写っているのはごく一部ですが。
三宮の中でもこのあたりは繁華街です。
このあたりが栄えたそもそものきっかけは実は勝先生が住んでいたからかな?と想像してみたり。

「おれは、なるべくは土地の者を使ってやろうという考えで、百姓などをたくさん用いたから彼らも大いに喜んで働いたが、なかにはそのために財産家になったものもずいぶんいるよ。明治六年におれが神戸に行ったら、元おれの家の門番であった飴売の娘が、立派なお茶屋の主婦になっていたヨ。こういうふうだから、俺も神戸へ行くとなかなかもてるのサ」 (氷川清話)

地域経済活性ということを意識し神戸の活気づかせたのでしょう。
なので勝先生の住居があったあたりが栄えているのは勝先生のおかげであるという私の説もあながち的外れではないかもしれませんよ。

さて、つづいては

「おれは生田の森の方に宅を構えて、たくさんの塾生をおき、また少し見込みがあったから地所をも段々買い入れた」(氷川清話)

と先ほども引用した氷川清話の中で勝先生が言ってましたがせっかくなので生田の森にも行ってみました。
生田の森は生田神社の中にあります。
生田神社は先ほどの勝先生の自宅があったと考えられる阪急三宮駅周辺から少し北にあがったところにあります。


おそらく昔に比べればずいぶん小さくなったとは思いますが、都会の真ん中にある生田神社の中にこんな森があるとは思いませんでした。

おまけ
神社においてあったお酒
剣菱
剣菱と言えば、赤穂浪士も有名ですが 山内容堂が愛したお酒としても有名ですね。
山内容堂といえば、こんな逸話があります。

文久三年。
下田の宝福寺にて勝は土佐藩前藩主山内容堂から酒席に誘われている。
その際、勝は龍馬の土佐藩脱藩の罪を放免してもらうべく容堂公に直訴していた。
そんな勝の直訴に対し容堂公はニヤリと笑いながらこう答えたという。
「ならば、この酒を飲み干してみよ」
そう言って大杯に並々と酒を注いで勝に勧めたのである。
ほろ良い加減で酔っているご隠居に対し勝は内心冷や汗をかいていた。
なんといっても勝は下戸である。(幽明の酒


自分の小説からの引用で申し訳ないんですが、勝海舟と山内容堂の間にはこんな因縁があったのです。
一説によれば容堂公は剣菱のお酒しか飲まなかったというので、このとき勝先生が飲まされたお酒も剣菱だったのかもしれませんね。
剣菱は神戸の東灘で作られているお酒です。

というわけで以上、神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅でした。
歩ける範囲のところしか行っていないのですが、自転車や電車を使えば勝先生が設計した和田岬にある和田岬砲台にも行けますね。
私が知らないだけで神戸にはもっと勝海舟ゆかりの地があるのかもしれません。
一つ無くなりましたが。

より大きな地図で 勝海舟ゆかりの地 を表示


2012年5月14日月曜日

神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【2】

前回の神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【1】はこちら

半分泣きべそをかきながら次に向かったのは、金星台にある海軍営之碑
勝海舟寓居跡から東に行ったところにあります。
真ん中にある方が、海軍営之碑 隣にあるのが撰文碑
帰ってから知りましたが、これ石碑の裏側に松平春嶽公の和歌が彫られてるんですね・・・・・
裏側を見ようとしたんですが石碑の裏は汚物が散乱しててその気がそがれちゃいました・・・
この海軍営之碑 勝先生が神戸に海軍を作ることを許してくれた当時の将軍徳川家茂公への感謝を込めて作ったものでもあるのだとか。

「維新の時だって、そう言ったのサ、『あなたの徳で、善い家来を持ったなどと思いなさるな』ッて。第一、御先祖様が、非常な方であるし、御先代様がお若かったが、大層善いお方で、よほど望みを属されていなすった。それがああいう事におなりなすった。私は、それで、コウいう御奉公をするのであります。あなたに御奉公するのじゃアありませんッテ。それは、ひどく言ったよ。」 海舟座談より

「維新の時だってそう言った」という相手は徳川最後の将軍慶喜公。
先代(家茂)への感謝の気持ちが無血開城に繋がったのかもしれません。
しかし、キッツいな・・・・・

勝物部義邦という名前に少しにやりとしてしまいました。
物部は本姓、義邦は諱ですね。 ところで義邦って名前を考えたのは小吉っちゃんなのかしら・・・・
気合いが入ってます。
でも、「勝」って名前がないと好きな人でないと勝海舟だってわからないかも(笑)
石碑に微妙に映る座敷童は気にしないでください・・・・・

ところでこの石碑。
文字が掘られてた石の上から新しい石板をコンクリでくっつけてます。
というのも数年前までのブログなんかを見てみると、当時から残る石碑に彫られた文がちゃんと見れたんですが現在はこのとおり見れなくなっています。
石碑は石碑で保存して、立て看板か何かで解説と文字を書くことは出来なかったんでしょうか・・・・。
なんか、全体的に史跡に対する扱いが雑・・・・・
もちろん、昔の石碑に彫られてた文字は削って保護してますよね・・・?
コンクリで上から固めてそのまま潰したってことないですよね・・・・?
誰かそうだと言ってください・・・

こちらは無事な状態で残っている撰文碑の方です。
これもいつ上から新しい石板埋め込まれたり潰されたりするかわからないな

ちょっとわかりにくいんですがこの写真の左よりの真ん中にこの撰文碑を書いた人物の名前が書いてあります。
男爵 目賀田種太郎
勝先生好きな方ならにやりとされたんではないでしょうか?
目賀田種太郎は勝海舟と女中の増田糸との間に生まれた娘、逸子の旦那さんですね。

目賀田 種太郎(めがた たねたろう、1853年8月25日嘉永6年7月21日) - 1926年大正15年)9月10日)は、日本政治家官僚法学者裁判官弁護士貴族院議員・国際連盟大使枢密顧問官男爵専修学校(現:専修大学)の創始者の一人である。また、東京音楽学校(現:東京藝術大学)創設者の一人でもある。(Wikipediaより)

近年では、東方神起のユノにそっくりの美形だとファンの間で話題になったようです(笑)
逸子ちゃんも勝先生そっくりの別嬪さんだし、美男美女ですね。
勝海舟で画像検索をかけてたら勝先生にそっくりな女の人が出てきてびっくり、それが逸子ちゃんだったという(笑)

ちなみに私の目賀田種太郎のイメージは、海舟座談に出てきた「足尾銅山鉱毒事件」のことで「あれはどうしましょう?」と勝先生に相談に来た「大蔵の目賀田」
旦那が勝先生ってのも大変そうだけど舅が勝先生っていうのも大変そう・・・・(笑)

この石碑の下にある金星観測記念碑の方にはまだ人がいるんですがここまで登ってくる人はあまりいませんね。
というのも、実はここ結構な山の上なんですよね・・・・。
諏訪山神社という神社から上がってくるんですが、結構な坂なんで近所でもなかなか上がる勇気が湧かない(笑)
坂の上に小さくワゴンが見えますが、これよりももっと上に金星観測記念碑がありさらにその上に海軍営乃碑があります。

海軍営乃碑があるところから見下ろす神戸の街は本当に美しいのですが、前回の衝撃から立ち直れていなかったので写真を撮り忘れてました。
代わりに大分降りてきた諏訪山神社前から神戸の景色をどうぞ。もういっぺん戻って撮り直す気力はなかった・・・。


おまけ
金星台を登っている途中にこんな石碑を見つけました。

・・・・何の石碑?
というか、裏?
しかし、すでにここは結構な坂の上でしかもこの石碑は崖に向いています。
しかも残念ながらこの崖の先には木々が生い茂っており誰の目にも触れることはありません。
・・・・・・・・・・・。

私の尊敬するとある人は言いました。
石碑を見たら裏を見るべし
思い切って見てみましょう。(というか表ですが)

山本亀太郎君紀功碑
・・・・誰?と思って調べてみましたが、明治初期に神戸で外国人相手に商売をしていた人?
ということぐらいしかわかりませんでした。
この石碑を建てた人たちもまさかこんなに誰からも見てもらえないようなところになってるとは思わなかったでしょうね。

本当にすぐ下は崖



神戸勝海舟ゆかりの地を巡る一人旅【3】はこちら