2012年5月20日日曜日

神戸事件現場検証

勝海舟について調べていると、必ず検索結果に出てくるブログがあります。
紅葉かの子さんという方の食べるように読むというブログなのですがその方がご自身のHPのモノフタルモスで発表している小説がとても面白くてハマってます。
そのうちの一つ、幕末維新捕物帖というお話ではアーネスト・サトウアルジャーノン・ミットフォードが主役でイカラス号事件を追って長崎に行くお話です。
あんな偉人やこんな偉人も出てきてとても面白いのでぜひぜひおすすめです♪
私は、「ちょっと読んでみよう」のつもりでお昼前に開いたのですが面白くってついつい一気に全部読んでしまい家人に「お昼ご飯まだ~?」と言われてしまいました(笑) 彼がお昼ご飯にありつけたのはその一時間後・・・・

アーネスト・メイソン・サトウ: Sir Ernest Mason Satow枢密顧問官GCMG1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリス外交官。英国公使館通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助(または薩道愛之助)。日本滞在は1862年から1883年(一時帰国を含む)と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると、計25年間になる。息子は植物学者の武田久吉。(Wikipediaより)

アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード、男爵リーズデイル卿Algernon Bertram Freeman-Mitford, 1st Baron Redesdale、1837年2月24日-1916年8月17日)は、イギリス外交官、収集家、作家。ヴィクトリア勲章およびバス勲章の受賞者である。幕末から明治初期にかけて、外交官として日本に滞在した。あだ名は「バーティ」。著名な「ミットフォード姉妹[1]」の祖父に当たる。(Wikipediaより)

・・・・で、そのかの子さんのブログを見ているとなにやら神戸事件について調べていらっしゃるご様子。
神戸事件?三宮神社の?
神戸の人でもピンと来る方はきっと歴史好きな方ではないでしょうか?
この神戸事件の現場になんとサトウとミットフォードの2人が居合わせていたようなんです!
これは行かねば!

ピンと来ていない神戸の人向けに説明しますと元町に大丸ありますよね?
あの大丸の前に小さな神社があります。
それが三宮神社です。
「あー・・・・そういえば、なんか神社あったな・・・・」という方もいらっしゃると思います。
そんな方もこの写真を見ればなんとなく思い出せるのではないでしょうか。


はい、この神社ですね。
写真にもあるとおり、この神社の前で神戸事件は発生してしまったのです。
では、神戸事件とは何か?
ちなみにここで言う神戸事件とは某少年犯罪事件でありません。 神戸事件で検索するとそちらも出てきますが・・・。

神戸事件(こうべじけん)とは慶応4年1月11日1868年2月4日)、神戸(現・神戸市三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたうえ、居留地(現・旧居留地)予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎切腹する事で一応の解決を見た。
相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。(Wikipediaより)

東の文字が訂正されてるのがなんか気になりますが・・・・

事件が起きた慶応四年一月はどんな時期か?
三か月前の慶応三年十月に大政奉還が行われ、十一月には坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されています。
そして事件が起きた慶応四年一月の三日には戊辰戦争が勃発。
そんな時代背景を元に事件は発生してしまうのです。
さて、ここに一枚の地図があります。


明治初期のこのあたりの地図・・・・・・の模写です。 
神戸っ子必携(笑)の神戸今昔散歩にたまたま明治初期の地図が載っていたのでそれを見ながら描きました。そのまま載せるのは気が引けたので・・・・・
雰囲気重視で無駄に筆で描きましたが、小さく表示したらちょっとそれっぽく見える気も・・・(笑)
神戸今昔散歩の方は『神戸古今の姿(昭和4年)』を元にしているようです。
ちなみにこの地図で言えば「生田川」と「西国往還」の間くらいに勝海舟宅があったようです。
この地図とGoogle Mapを使い、どういう状況で備前藩士と外国兵が小競り合いを起こしてしまったのか見てみましょう。
まずは備前藩士の方から。
当時は前述のとおり戊辰戦争開戦直後であり備前藩は倒幕藩でした。
備前藩は幕府側の尼崎藩をけん制するため、岡山城を出発し東の尼崎へ向かっております。
悲劇の発端は、大名行列と外国人との衝突をさけるため幕府が作った徳川道を通らなかったことでしょう。
彼らは西国街道を通って尼崎へ向かっていたようです。
西国街道を通って尼崎へ向かった場合、このような道を通るつもりだったと考えられます。



今の元町商店街からこの道を通って大丸前、つまり三宮神社前に備前藩士たちは来たと思われます。

一方、外国兵たちは北から現在のトアロードを通って南に向かっていました。


・・・・・でこのような形で外国兵と備前藩は出会ってしまったのです。

1月11日(2月4日)13時過ぎ、備前藩兵の隊列が神戸三宮神社近くに差しかかった時、付近の建物から出てきたフランス人水兵2人が列を横切ろうとした[1]。これは日本側から見ると武家諸法度に定められた「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、これを見た第3砲兵隊長・滝善三郎正信がを持って制止に入った。しかし、言葉が通じず、強引に隊列を横切ろうとする水兵に対し、滝が槍で突きかかり軽傷を負わせてしまった[2]。(神戸事件Wikipediaより)

事件が発生したと思われる場所

これに対していったん民家に退いた水兵数人が拳銃を取り出し、それを見た滝が「鉄砲、鉄砲」と叫んだのを発砲命令と受け取った藩兵が発砲、銃撃戦に発展した。この西国街道沿いにおける小競り合いが、隣接する居留地予定地を実況検分していた欧米諸国公使たちに銃口を向け、数度[3]一斉射撃を加えることに発展する。弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした[4]。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない[5]。 (神戸事件Wikipediaより)

備前藩士たちの射撃は威嚇射撃だったのか?それとも殺意はあったが命中しなかっただけなのか?
その鍵は国旗が穴だらけとなってしまったという神戸税関と発射場所にあるような気がします。
ところで、神戸税関?神戸税関の場所って・・・・


三宮神社からは縮尺変えないといけないくらいめちゃめちゃ離れてますけど・・・・。
いったいどこから撃ったんでしょうか。
直線距離でも700mくらいありそうです。


というわけで神戸税関に来ました。
ちなみにこの神戸税関があったところは海軍操練所があったあたりでもあります。


神戸税関(こうべぜいかん)は日本税関兵庫県神戸市中央区新港地区に主たる事務所を置く。
兵庫県中国地方山口県を除く)、四国地方を管轄する。 「開かれた税関」を目標に掲げ、中庭および庁舎内の一部を公開している。(Wikipediaより)

阪神大震災で半壊しましたが、外見を保全する形で改築されました。
外見が東京警視庁の旧庁舎によく似ていることからよくドラマのロケに使われるそうです。
・・・そういえば見たことあるような・・・・。

ちなみに現役

広報展示室は平日の8:30~17:00の間、無料開放しているようです。
・・・・で、ここまで来ておいてなんですが。
さすがに遠すぎるでしょー・・・弾届かんでしょー・・・・・
と、思ったところで気づいてしまいました。
現在の神戸税関があるところは新港町」
明治の終わりから大正の初めにかけて出来た地区です。
つまり、当時はまだ存在しない地区。
あれ?じゃあ神戸税関(当時の兵庫運上所)があった場所は?

やっぱり移動しておりました。


現在の神戸税関よりも西に行ったところにある神戸合同庁舎のあるところにあった様です。
さりげなく『神戸税関発祥の地』という石碑が立っています。足で稼ぐのを辞めてグーグルに頼ることにしたらしい(笑)


三宮神社とこの神戸地方合同庁舎の距離は直線距離にしておおよそ500m
うーん・・・・それでも遠いか?火縄銃で500mも飛ぶの?せいぜい数mじゃないの?
・・・・と思いましたが、ネットで調べてみるとポルトガルからの伝来当時でも火縄銃は700m飛んだのだとか。
命中精度はともかくとして飛ぶことは飛ぶようです。
仮に三宮神社を起点として発射位置を出していますが、生田馬場のあたりから撃った可能性もありますし十分届くと思われます。



Aの地点は生田馬場と西国往還が交わったところ

生田馬場からなら、直線距離にして400m程でしょうか。
ただし、気になるところもあります。

弾はほとんどあたらず頭上を飛び越して、居留地の反対側にある旧幕府の兵庫運上所(神戸税関)の屋上に翻る列国の国旗を穴だらけにした。銃口を上に向けた威嚇射撃であったのか、殺意はあったが訓練不足により命中しなかったのかに関して欧米人の証言も一致していない(Wikipediaより)

「穴だらけにした」ってことは相当数発射され、かつ相当数が国旗を穴だらけにしたということでしょうか。
訓練不足で殺意はあったが、命中せず国旗に穴が開いてしまったのであれば、「穴だらけ」になるほどたくさんの穴が開いてしまうものでしょうか。
また、当時の神戸税関がどういった建物で何階建てでどれくらいの高さがあったのかわかりませんが人を狙って撃った弾がいくら訓練不足であったとしても400m~500mほど先の屋上にあった国旗に命中するものなのでしょうか?

もちろん、この400m~500mというのは飽くまでも備前藩士たちが進行方向である「西国街道」から居留地予定地に向かって発射したであろうという前提に立った上での推測に基づいた数値ではありますが。
さらに、火縄銃というのは小銃と比較すると直進安定性が劣るようです。
仮に400m~500m飛んだとしても弾は上に上がり続けることなくむしろどんどん落ちて行ってしまったのではないでしょうか。
落ちていく弾が屋上にある国旗に命中したということは、かなり上を狙って撃った威嚇射撃であった最初っから屋上の国旗を狙って撃ったもしくはそもそもそんな事実はなかった。
個人的にはこのどちらかだったような気がしますが、真相は闇の中です。

※追記 2012/06/01
銃に関してかの子さんから情報提供がありました。 ありがとうございます!(それにしても情報提供って書くとタレコミみたい(笑))
かの子さんによれば、ミットフォードは『アメリカから買い入れたばかりの銃であり、そのため照準の合わせ方が分からず、当たらなかった』と言っており、サトウは『元込銃』だと言っているそうです。
いずれにしろこの二人の共通認識としてはこのときの備前藩士の銃は火縄銃ではなく新式銃であったようです。 一説にはスナイドル銃であったのではないかとも。

ただミットフォードの説であれば、「鉄砲隊の全員が全員とも照準の合わせ方が分からず、間違って国旗を穴だらけにしてしまった」ということになります(本当に国旗が穴だらけになったのなら)
それならば照準の合わせ方がわからずに誤って飛んだ弾が穴だらけと言えるほど国旗に命中するのだろうか?という疑問は残ります。
あと実戦で使い方がわからないような銃を持っていくだろうか・・・?事件関係者に詳しく取材したいものです(笑)


400m先から屋上の国旗を狙うときのイメージ(ここから三つ先の信号あたりが400m先です)
どうでしょうか?・・・・・・って見えません。
さて、その後、事件は国際問題に発展していきます。

自らも現場に居合わせたイギリス公使ハリー・パークス[6]は激怒し、折しも兵庫開港を祝って集結していた各国艦船に緊急事態を通達、アメリカ海兵隊、イギリスの警備隊、フランスの水兵が備前藩兵を居留地外に追撃し、生田川の河原で撃ち合いとなった[7]。備前側では、家老日置が藩兵隊に射撃中止・撤退を命令、お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かった。(Wikipediaより)

パークスは激怒した。
必ずかの備前藩兵を追撃せねばならぬと決意した。

というわけで撃ち合いとなった生田川に来てみました。
川ないし。
当時、生田川があった場所、実は現在のフラワーロードです。
フラワーロードという名前のおかげで「花屋通り」だと勘違いしてプロポーズ用の花を求め捜し歩いた馬鹿がうちにいます。


というのも場所的にもしも生田川が氾濫した場合、外国人居留地に影響が及ぶということで現在、新神戸駅のあるあたりに付け替え工事が行われました。
はい、うちの実家の目の前です。
この工事を行ったのが、加納宗七
三宮周辺にお住いの方はピンと来るかもしれません。
そう、北野と三宮の間にある加納町
この地名は彼に由来しているのです。
勝先生のパトロンこと灘五郷の嘉納治右衛門(治朗作)じゃなかったんですねぇ。

ちなみにこの加納宗七さん、元は紀州藩士で坂本龍馬が暗殺された折には同じ紀州藩士の三浦休太郎がこの暗殺に関わっていた!と海援隊に情報を流し後の四代兵庫県知事陸奥宗光と一緒に襲撃しています(天満屋事件) ちなみに三浦さんは無事だった模様。
さて、国際問題に発展した神戸事件ですが、その後どうなったのでしょうか。

神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕した。この時点では、朝廷は諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、伊藤俊輔(後の伊藤博文)が折衝に当たるも決裂するに至る。(Wikipediaより)

軍事占拠はやめてください。

しかし、伊藤博文が後に初代兵庫県知事となったのもこの神戸事件の交渉にあたったからかもしれませんね。
当時、伊藤俊輔27歳・・・・・・・・。

諸外国側の要求は日本在留外国人の身柄の安全保証と当該事件の日本側責任者の厳重処罰、すなわち滝の処刑というものであった。この事件における外国人側被害に対して処罰が重すぎるのではないかとの声もあり、また、日本側としては滝の行為は、少なくとも「供割」への対処は武士として当然のものでもあったが[8]、列強の強い要求の前に抗うことが出来ず、伊藤や五代才助(後の五代友厚)を通じた伊達宗城の期限ギリギリまでの助命嘆願もフランスのレオン・ロッシュをはじめとする公使投票の前に否決される。
結局、2月2日2月24日)、備前藩は諸外国側の要求を受け入れ、2月9日3月2日)、永福寺において列強外交官列席のもとで滝を切腹させるのと同時に備前藩部隊を率いた日置について謹慎を課すということで、一応の決着を見たのである。(Wikipediaより)

この滝善三郎が切腹をした永福寺。
現在の神戸市兵庫区にあったようですが残念ながら神戸大空襲により消失しています。
ですが、滝善三郎の供養碑は現在能福寺に移されているようです。
・・・・ってこの間、平清盛のお墓見に行ったばかりだよ・・・能福寺・・・!

神戸事件はサトウやミットフォードを始めとする外国人公使の皆様の間でもいろいろ意見がわかれているようですが私は滝善三郎について書いていきたいと思います。
「赤磐郡誌」という岡山の郷土資料によれば、

善三郎は大に喜んで、主命に服する事になつた。

とこの切腹命令を受け入れています。 ・・・本当かな?
そして切腹の前にこのような意味のことを言っています。

「あの時、発砲命令をしたのはこの私、正信(善三郎)です。公法によりこのような処置となり、ここで謝罪するため切腹いたします。宜しく御検証ください。」

本当はいろいろ納得いかなかったと思いますけど、切腹前にこの言葉が言えるのは凄いなぁと思います。

きのふみし夢は今更 引かへて、神戸がうらに名をやあげなむ

こんな辞世の句を残し、切腹。
善三郎さん、このとき32歳 
28歳の奥さんと4歳の息子、2歳の娘を残し、旅立っていったのです。
ちなみにこの切腹には前述のサトウとミットフォードの英国公使コンビも立ち会っています。
そういえば、昔「切腹」について調べていたときこの時のサトウさんの冷静すぎる切腹についての記録がとても参考になったことを思い出しました。

この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港上海の様に理不尽な占領下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされたことは日本史の流れにおいても重大な出来事であった。(Wikipediaより)

神戸が理不尽な占領下におかれるのは困る。

神戸が日本なのは当たり前じゃないんですね・・・・・。
滝善三郎が切腹しなければ、神戸が日本ではなくなっていたとしたら彼は英雄ですね。
もしも切腹させずに有耶無耶に済ませてしまっていたら、いつか因縁つけられて神戸は香港や上海のように占領下におかれ続けていたかもしれません。・・・・多分。
そういって彼の切腹を主張し続けたサトウ・ミットフォードの2人をフォローしてみる。


※ ここに書いていることは飽くまでも私の推測であり、正しいという根拠はありません。
※ そして外国人公使たちの証言等について調べておりません。
※ Wikipedia頼みです。

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