2012年10月2日火曜日

坂本龍馬と汗血千里の駒


都合により今まで以上に時間が出来たので、常々「すごいなぁ」と思っている某方の読書日記のようにこれからは読んでいる本の読書メモをちょっと書いてみようと思います。写真日記はどこいった
・・・といっても普段本なんて全く読まないんですが(笑)特に小説の類は完全にお手上げです。
にも、関わらず今回読む本はずばり「坂本龍馬」を主人公にした小説。
・・・とくれば、司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」を思い起こされる方も多いかと思うのですが残念ながら違います。
「坂本龍馬」という人物を初めて「英雄」として小説の中で生き生きと蘇らせた坂崎紫瀾の「汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝
この本がなかったら、高知に坂本龍馬像がなかったかもしれませんしひょっとしたら「竜馬がゆく」だってなかったかもしれません。
豪放磊落な英雄気質としての「坂本龍馬」はここから生まれたといっても過言ではないと思います。
何しろ、坂本龍馬を初めて描いた小説ですから。
この本が書かれたのは明治十六年、つまり1883年ですから「竜馬がゆく」のおよそ80年ほど前の小説になるでしょうか。
坂本龍馬ブームが起きたのはおよそ三回。
三回目は言うまでもなく「竜馬がゆく」ですね。

明治十六年、それまでほとんど無名だった「坂本龍馬」を一躍英雄にしたのがこの「汗血千里の駒」なのです。
この小説が大ブームとなったことにより、明治二年の「論功賞」では功績が認められなかったのか特になんの行賞も行われなかったのが、明治二十四年にはなんと正四位が追贈。

そんなんありか

小説のおかげで龍馬死後大出世を果たすこととなるのです。
功績の割に死後百年銅像がつくられなかったり独裁者と言われた挙句、紀尾井坂で暗殺されるようなどちらかと言えば嫌われ者が好きな私としては死後大出世の龍馬に嫉妬。
ちなみにこの作者の坂崎紫瀾は大河ドラマ龍馬伝の第一回目に「岩崎弥太郎に取材する記者」として登場しています。

第二回坂本龍馬ブームが起きたのは、日露戦争開戦直前の明治三十七年
皇后美子の夢枕に立ち「ご安心なさいませ、私が日本海軍人を守護いたします」と語る一人の侍の姿が。
当時宮内大臣だった田中光顕が、「ひょっとしてこの人物ではなかったですか?」と写真を見せるとずばりその通り。
この侍こそが「坂本龍馬」だったのです。
田中光顕といえば、元土佐藩士にして中岡慎太郎の陸援隊幹部。
坂本龍馬暗殺事件の際には事件の直後に近江屋に駆けつけ重傷の中岡から聞き取った人物でもあります。
また坂本龍馬、中岡慎太郎両名の墓には彼も文字を書いています。
そのため、「田中光顕が一本芝居を打ったのでは」という話もありますがそれは定かではありません。
「美子皇后、その人って実は神戸海軍繰練所をつくり海軍卿もつとめた勝海舟って人じゃなかったですか?龍馬よりもっと美形なんですが、ほらほら。」
・・・と写真を持って問いつめたい気もします。
明治三十七年だとしたら勝先生はその四年前に亡くなってますし。
勝先生なら夢枕にだって立てる!(きっと)
・・・まぁ、美子皇后なら写真見なくても勝先生のこと知ってそうですが。
ただ、ああ見えて「戦争嫌い」な勝先生がそんな言うかな・・・という気もします。
戦争嫌いというよりも亜細亜同士で争うのが嫌なだけかもしれませんが。
勝先生はさておき、その後、龍馬の言葉通り日露戦争の日本海海戦で大勝したことで皇后の御意思により京都の霊山護国神社『贈正四位坂本龍馬君忠魂碑』が作られることとなりました。

羨ましい・・・・・

そういえば、ネット上で読んだ短編小説で「坂本龍馬は勝海舟の「ほら話」から生まれた実在しない人物」といった内容のものがありました。

氷川清話の頃だと思われますが、新聞記者相手に色々語っていた時のこと。
薩長中心の新政府の面々、この当時の面々は既に世代交代しており維新の頃に特に目立った活躍もなかったにも関わらず「維新の元勲」と大きな顔をしていたことに憤慨していた勝海舟。

「へん・・・あんな連中よりも、昔はもっと凄い奴がいたもんさ」
「ほう、それはいったいどういう人ですか?」

こう新聞記者から訪ねられた勝海舟は、ある人物をでっちあげます。
それが「坂本龍馬」
薩長の人物だと色々面倒だから「土佐藩出身」で・・・などと勝海舟が「英雄坂本龍馬」の設定を考えて実在のように仕立て上げるのです。
美子皇后の見た夢も、勝海舟が死ぬ前にやった指示・・・。

といったような短編小説だったかと思います。
坂本龍馬が「実在しない」ということはないでしょうが、この短編小説の勝海舟のような人物こそ実は「汗血千里の駒」の作者である坂崎紫瀾なのかもしれません。
次回からはこの小説の内容について書いていきたいと思います。


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