2009年7月21日火曜日

防災未来館

入場料が半額だったので「人と防災未来センター」にある「防災未来館」へ行ってきました。
震災直後の街の様子がCGや映像でリアルに再現された「震災直後のまち」ではただひたすら震災で街が壊れていく様子を映し出していました。
今回の防災未来館に行ったことにより改めて震災について家族で話し合いました。
こんなことがあったね、あんなことがあったね。
14年前の神戸を思い出しました。
当時10歳だった私は神戸市西区の田舎に住んでいました。
西区は幸いにも他の区よりも被害が少なく私の家も電気や水が止まりはしましたが、他は食器棚が倒れてたくさんの食器が割れたくらいで怪我人もなく焼け野原となってしまった他の地域を恐々テレビで見ていました。
地震から数カ月後、父が三ノ宮へ行こうといいました。
三ノ宮は神戸の中心地であり被害が大きかったところです。
小学校二年生の弟と私と母と父でビルが傾き看板がいつ空から落ちてきてもおかしくない三ノ宮の街を歩きました。
映画で怪獣が大暴れしたあとのセットとしか思えないような街並みが私にとって覚えている一番古い記憶の三ノ宮です。
そこで父は写真を撮っていました。
そのフィルムは残念ながら行方不明です。
食い意地のはった弟は歩道橋に置いてあった段ボール箱に目を輝かせました。
「御自由にお食べください」
中には美味しそうなクリームパンが入っていました。
「これ、もらってもいいかなぁ?」
私たちに向けて置いてある食べ物でないことがわかっていたので未練たっぷりの弟の手を引いて歩道橋を降りて行きました。
人ってあたたかいな、と段ボール箱に入ったクリームパンを見て思いました。
辺りには注意を喚起する貼り紙がたくさん貼られていました。
今、三ノ宮の街並みを見ていると時々あの壊れた三ノ宮が透かし絵のように見えてくることがあります。
それと共に当時、「頑張ろうや、神戸」「WE LOVE KOBE」という言葉をあちこちで見かけたことを思い出します。
忘れてはいけないことがたくさんあるのに時間は時に残酷にそれらのことを忘れさせてゆきます。
時が経ち、歌詞もおぼろにしか思い出せなくなり歌えなくなってしまった「幸せ運べるように」のメロディを時々口ずさみながらあの地震のことを思い出すことにします。




大きな地図で見る


0 件のコメント:

コメントを投稿